あかんたれブルース

継続はチカラかな

人と人の間にあるもの

タカになりたい(10)


久々のリアルタイムアップです。
「人」という字は、
なんてのっけから金八先生みたいにはじめてみる。
まあご存知ですよね。
二本の棒が人を表し人間は支えあって生きている。
生かされいるんだよ、という教えです。
誠に結構なお説教だ。

なかには「人」自体が人間を表し
自立を意味するとか
生まれたときはひとつでもやがて枝分かれ
していく人の世の生き方だとか
色々いう人もいますが、まあその是非は別に
そういうものは補足程度のもので
最初の支えあって、のが一等だわなあ。
最近はそういう考え方に納得できないとか
「そうはいっても」とか
まあそれでも
その場は頷いても二三歩歩くと忘れてしまう
ひとが多いものです。

ま、それは人それぞれ
自分のことですから他人がとやかくいっても
はじまらない。
聞けるタイミングがこなければ聞きません。

さて、では「人間」はどうなのか?
人と人間って同じ意味ですよね。
同じなのですが人間と表現すると「間」がある。
以前、この「間」についても記事にした
ことがありました。
それは間合いだったり、距離感だったり
つまり人と人の間の、ということだ。
剣道の間合いだったり役者の間だったり
茶道なんかでの対人との間とかね。

これってとても大事で
私たちは成長過程でそれを学んでいくものです。
その人その人同士で「適」という間合いがある。
これはオーダーメイドで国際基準なんてない。
「人間同士の間合いは85cm」なんて
マニュアルは存在しませんね。

それでもって人間には「過剰」に走る
という性がある。
ついついこの適を踏み外してしまうものです。
ついつい勢いで密着してしまいたい
衝動に駆られてしまう。
恋愛なんかそうです。
それはそれでいいのですが

この兼ね合い駆け引きは難しいもので
状況や環境や時間軸によっても変わるものだ。
そういうなかでしくじったりしながら
体で覚えていくものなのでしょう。
当然その失敗やしくじりには痛みが伴う
それ以前に、不安だったり怖さがあったり
はなからそれを愚行として封印してしまう
人も多いものですが、これは体で覚える
実学みたいなものですから
避けて通っても宿題として背負っていかきゃ
ならないものだ。

そういう間の存在を不純と考える人も
いるでしょうが、これはたとえ
親兄弟姉妹であっても配偶者恋人であっても
親友だろが戦友だろうが必ずあるものだ。

それができるできないじゃなくて
それを認知するかしないか
ここが大きいと思うんだなあ。

発達障害という言葉をよく耳にします。
ここで使う発達障害アスペルガーとかじゃなくて
人間が成長していくプロセスとして
身につけるべきそういった間合いの技能を
どこかで見過ごしてしまった
もしくは過信してしまった
現代人の発達の障害という意味です。

大人だろうが年寄りだろうが
男女関係なくそういう人は多いものです。
昔からね。
ただ、いまはそういう人たちが多過ぎる。
察せられない、機微がわからない
自分に対しては過敏すぎるほどなのに
他人に対しては無関心。
そういう人が多すぎる。嫌な世間だ。
かと思うと必要以上に・・・
でもそれは結局自分のことだったりという
オチがつく。薄っぺらいんだな。

なんでこうなったんだろうか・・・
いろいろ考えてみるのですが
あげればいろいろ理由や言い訳はあるでしょう。
でもさ、最大の原因は驕りだよね。
迂闊さといってもいいし
もっといえば自己中心的な考え。
わたしはこれを自己の肥大化といったりします。

ストイックになれとか
シビアに生きろとか
そんなことを言ってるんじゃない。
そういうなかに不自由が生まれて
いろいろ支障がでるのならば、
まずそこから考えてみたらどうだろうと。
他人にとやかくいっても
そんなのどうにもなりゃしませんよ。
ましてや現況とか条件とか問題をあげても
問題指的イコール解決にはなりませんからね。
いや別にいうなとはいいませんよ。
おかしなことは言えばいい。
問題は自分のことだ。

ヒルとかぺシミステックとか
ましてや達観(悟り)なんかが
カッコいいなんて妄信は単なる時代錯誤の
思い込みだよ。つまらんトレンドだ。
そういうものから卒業する
まずそこからじゃないのかと思う。
そのほうがずっと楽だよ。

人と人の間にあるものを壁と意識せずに
なんというか相手を傷つけたり怯えさせない
ためのクッションみたいな
気遣いみたいなものであるとすれば
すこしは納得してくれるのだろうか

「じゃあお前はどうなんだ」

人のことなんかどうでもいい。
自分の問題としてだよ。
問題をすり替えていけない。