あかんたれブルース

継続はチカラかな

さらば活字の時代

犯人はお前だ。No.4)


活字離れといわれて久しい。
時代性といえばそれまでだが
とは別に、
戦前と戦後の作家の性質がまったく異なった
という指摘がある。
なんか出だしが偉そうだなあ(汗)
なんで読んだのかなあ・・・とお頭をテンテン
たしか『おそめ』だったような。
http://1000ya.isis.ne.jp/1155.html

わたしは現在の活字離れの下手人
その主犯格を松本清張ではないかと推理する。
1953年の『或る「小倉日記」伝』を皮切りに
『張込み』『点と線』『砂の器』など数々の推理小説
『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などの
ノンフィクション作品など
ミステリのひとつのスタイルを作った
戦後を代表する作家だ。
その作品は映画化、テレビドラマ化もされ
松本清張作品として御馴染みかとも思う。

綿密な取材をモトにした・・・
これが清張の特徴でもあるけれど
この綿密がスタイル化してエンターテイメントを
小難しくさせてしまったのではないだろうか。

わたしが若い頃、36、7年前かなあ
コミックのニューウエーブとして諸星大二郎
という漫画家が登場した。
大友克洋なんかと同じ頃だったかな。
この諸星大二郎は絵は下手だったけれど
奇想天外のSF伝奇作家でその裏づけとして
膨大な古文書などの資料その解説、漫画でいうと
ネームというので紙面がおおわれていたものです。
それに対して、
手塚治虫が資料は10に対して1ぐらいを
という注文を出していた。

巨匠のアドバイスを諸星はどこまで受け入れたか
知らない。その後さほどの変化があったとも
思えない。努力はしたんじゃないかな。
でもこれは酷な注文だったようにも思う。
諸星はそんなに絵も上手くないし
ストーリーテーラーでもなかった。
ただ膨大な資料から閃く発想が命で
その命は裏づけとなるデータの列記で保たれている。
それがなければ読者には荒唐無稽なのだ。
結局、現在諸星大二郎を知っているのは
一部のマニアぐらいなのかなあ

どんなに芸術文学ともてはやされても
マンガは漫画
エンターテイメントなのである。

対して、読み物としてのエンターテイメントは
すっかり小難しくなり、それを結構尊ばれる。
膨大な資料、取材力
その裏づけのために全体の3分の2が費やされ
読者はそれに付き合わされる。
しんどいこっちゃ。

そうじゃない作家もいるけれど
そういう作風が多くなったのも確かだ。
そこに活字離れの原因のひとつがあるとすれば
犯人は松本清張ではないかということになる。

そんなことをいうと共犯は司馬さんもなのかな(汗)
対極に位置するは山田風太郎とか池波さんとか
でもノンフィクションのほうがフィクションより
小説より格が上みたいですからねえ。

松本清張というと戦後の作家の代表みたいな感じ
ですが、太宰治と同じ歳だって聞いて驚いた。
太宰は戦前の人ってイメージがあるよね。

前出の『おそめ』では
戦前の作家は戦後のそれより数段レベルが高かった
みたいなこと書いてあったなあ。
戦後は作家がみな低俗化したと。

わたしは松本清張の作品はさほど読んでいない。
活字が苦手だ(汗)
その作品の多くが映画で知るケースがほとんど。
ただ、父親の書棚からこっそり盗み読んだ
清張の短編集にはなんともいえない
男と女の人間臭い味わいのドラマが描かれていた
ように未成年のわたしには感じられた。
そういうものが膨大な活字のなかに埋もれていく。
その煩わしさから敬遠してしまたんだと思います。