あかんたれブルース

継続はチカラかな

毒のフィルター

毒のフィルター No.1)


穿った(ものの)見方.なる言葉があります。
「間違った見方」「疑った見方」
「斜め角度から見る見方」「偏見を持った見方」
もっと悪い言い方をすれば、下衆の勘ぐり
なんだろうけれど
本当の意味は
「物事を深く掘り下げた=本質を捉えた見方」
なんだそうです。
まったく真逆のニュアンスですよね。

現代社会がルサンチマンポピュリズム
支配されているとしました。
それを前提にして、この穿ったの履き違いはある。
それは「疑う知性」の履き違え
ともいえるんじゃないかな。

ノンフィクションの売りは「真実を暴く」だ。
つまりは、それまで信じられていたことが
まったくの嘘で、真実は真逆のショッキングなもの。
水戸黄門は諸国漫遊どころか水戸藩から
一歩も出ていないとか
赤穂浪士の最期はみっともないものだったとか
ま、こういうのは他愛もないものですが
あのタレントはカツラで実はハゲだとか
あの清純派アイドルはバリバリのヤリマンだとか
あの政治家はああだこうだ裏金だとか
そういうのが大好きなのだ。
醜聞、スキャンダル、女性セブンだね。自身かな
フライデーだ文春新潮、日刊ゲンダイだ。

ま、それはいいとして
そういう履き違えの穿ったさんは
一般人のなかにも深く渦巻いている模様です。
日本人が本音と建前を器用に使い分けるぶん
表裏が露骨にあって
ホントのところどうなんだかわかったもんじゃない
という猜疑心もフル稼働しちゃうのでしょう。

というか、信じて裏切られることを怖れる。
そのギャップ、転落のショックを
できるだけ緩和させておくためにも
「あんなこといってるけどホントのとこどうだか」
と、穿った見方(?)をする癖がついている。
不信の時代なんだよねえ
また、そういう時代にさせてしまった。

ま、なんでもかんでも信じるっていうのも
どうかとは思うのですが
なんでもかんでも疑う裏がある逆張りっていうのも
どうかとは思いますけどね。
それはもう洞察力とは無縁の力業だ。
こういったシニカルでニヒルで斜に構えた生き方が
結構トレンドです。
しかしはたしてこれをクールとか知的といるのか?

取り合えずなんでもそう観て間違いない
という力業的原則論と
落胆を緩和させるための予防線
あとは・・・「私は知っている」という優越感
とかかなあ
また、その暴露される真実が正しいか正しくないか
そこはあまり関係ないようです。
見かけだけでも現実主義者であることが重要。
ま、たいがいがこんなところでしょう。

ここに毒のフィルターというものがある。

最近カラーコンタクトレンズ健康被害
社会問題になっていますが
この毒のフィルターも似たようなもので
その毒がやがて全身にまわって冒されてしまう
ってこと知っとるけ。
神経をやられてしまうようです。

こういうなかから飛び出す症状、言動に
「暴言」なるものがある。
ネットでもリアルでもときどき耳を目を疑うような
暴言(的表現)がある。

わたしはこれもふくめごく個人的な
もしくは時代環境的な一種のトレンドとか
捉えて、
たとえば日本人の稚拙化、幼稚化
もしくは個の肥大化と表現してきました。

どうもそれだけじゃないみたい。

こと事態はもっと大きくて深刻なんじゃないかと。
疑う知性の履き違えから生まれた
毒のフィルターの毒がいつしか全身にまわって
中毒症状を起こしているんじゃないかと
それを日本人の民度の向上のひとつ
な~んって考えるのは危ないんじゃないかと

DV、パワハラ、モラハザ、発達障害、ボーダー、
似非現実主義者、原則論者、陰謀論者、
過剰防衛反応者、クレーマー、厄ネタ、アゴラなど
みーんな出どこはここなんじゃないかと。

そういわかけで、みなさま御馴染みの
暴言についてすこし考えていきます。