あかんたれブルース

継続はチカラかな

疑う知性のうっかり八兵衛

毒のフィルター No.7)


境界性パーソナル障害などが
幼少期に親の愛情を十分に得られなかった
ことが原因だとされる点について
これは人間(生き物)の成長の過程での
重要なプロセスの問題なのだと思う。
無条件でまず信じる心というものを育ませないと
発達障害をおこさせてしまう。
三つ子の魂百まのでもという諺があいますが
これはとても重要なことだ。

無条件の信頼、それはまず親から与えられる。
親がいない場合はその代わりの誰かから
介助犬などが訓練前までボランティアの家で
愛情いっぱいに育てられるのと同じですね。
また、ペットなどのブリーダーで
親から早いうち引き離された子犬や子猫は
精神的に問題を抱えるようになるといわれるのと
同じ。
親離れにはそれなりの時期がある。

疑う知性はその後の話なのだ。
最初の信じる心が未成熟のままだと
社会適応のための疑う知性ばかりが育ち
毒のフィルターだけに被われていまいかねない。
信じる心と疑う知性は
ニワトリとタマゴではなく、順番がある。

そういう意味で境界性パーソナル障害は
発達障害ともいえる。
過剰な不毛的確認作業も疑う不安が原因だ。

わたしは明治の元勲で長州閥の首魁
伊藤博文山県有朋を研究するなかで
両者の性質の格差はこの幼少期の愛情過不足に
あったと知りました。
どちらも貧しく低下層の人間でしたが
伊藤に比べ山県には愛情が不足していた。
あまりにもはやく社会の辛酸をなめたのだ。
疑う知性ばかりが発達し結果、山県のような
人間が構築されたのだ。
山県有朋は境界性パーソナル障害といっていい。
では、山県は何に依存したのか?
権力か、国家か、自分自身か、庭園か・・・?
それもあるでしょうが
山県は純粋なものを実は生涯追い求めていた。
その死を国家の御奉仕とまでいわれ
日本の近代史のなかで否定の象徴とされてきた人物。
そんな彼が心惹かれていたのは
杉山茂丸、福島安正、小村寿太郎など
彼らに共通するのは私心のない純粋な祖国愛だった。
山県はそういうものを愛して求めていた。
救いを求めていたともいえる。
それは政敵である伊藤博文に対しても同じ。
陰口を叩いていた原敬にさえも
それ以外は、山県のフィルターを通しては
邪悪で低俗で唾棄すべき連中だったのかしれない。
それは当らずも遠からずであり、その側近の多くは
そういう輩であり、そういうものを利用する
悪の権化が山県有朋だった、といっても過言じゃない。
中立的な立場から俯瞰してみれば
毒で毒を制すみたいな感じかなあ・・・

山県に国家とか自治という柱がなかったら
彼もまた単なる境界性パーソナル障害で終わった
ことでしょう。
その意味では、山県有朋は今時のボーダーではない。
それはそれで地に足が着いていた。
比較すれば、伊藤博文とはまったく異質なんだけど。

こんなことを書いても現代人の多くの人は
なんのことやらピンとこないでしょう。
すこし歴史を齧った人なら
山県有朋は無条件で悪い奴であり
伊藤博文でさえもどっこどっこいみたいなもんかな。

これが現代人の毒のフィルターの存在なのだ。
刷り込みと思い込み、偏見に満ち溢れた無知
もしくは精神性を伴わない知識偏重の偏った知性。
暴言はこういうところから生まれる。

「ボーダーには気をつけろ!」

よくいうよ。誰にどうこういう前に
自分自身が一番怪しい。
疑うんならまずそこからじゃないのか?
そういう自己矛盾の苛立ちを
他者に向けて暴言で解決させようという
甘えこそが現代が抱える病根の実態
なのではないかと深く考えるのです。

そういうものを解決させるのには
精神性を取りもどすことにある。
それがフロムが提示した愛すること意義なのだ。

これはユダヤ人だからこそ生まれた孤高の英知だ。
私たちはユダヤ人=銭ゲバ=陰謀
と偏見のフィルターで誤解してる。
こと、フロムに関していえば
その核には「純正」というものがある。
正論や正義ではない。
純正は必ず、大多数の意見の対極に位置する。
それほどに、大多数の意見や常識というものは
危ういものだということです。
大多数の意見が「金」だ。「力」だ。
それが常識の世の中。
命より大事だときたもんだ。
おかしいとはおもわない?この常識。
この出どこはどこなんだろう。

この世の中を変えたい?
カラ出張して、切手買って売って、ズルして
変わる世の中ってどんなもんなんだ?
食品偽装と同じで、兵庫県だけに止まらず
全国津々浦々まで根こそぎ芋ズル式ですよ。
原発利権と同じ。みーんな繋がってる。
自分だけは大丈夫なんておこがましい。
そういう御都合主義が罷り通ってわけだ。
単なる権力闘争、利権闘争じゃないか。
不公平だって。俺に一口かませろ!

愛されるためだけに奔走するのではく
今一度、立ち止まり
愛するこという本質を捉え、その技術を学び
実践していく。
これでしか救われない。
わたしたちはもうすでに追い込まれて崖っぷちなのだ。
これしか手立てはない。

この件これにて、おしまい。