他人事の感動と間合い
土曜日に病室を抜け出しテクテク歩いて
田端駅前のツタヤで借りてきたDVDから
昨日は『そして父になる』を観ました。
是枝裕和監督のこの作品はカンヌで
審査員賞を受賞した話題作。
六年前に赤ちゃんをすり替えられた家族
それまで自分の子として育ててきた我が子が突然
他人の子で、我が子はその他人に育てられていた。
血縁という価値観と情との葛藤に悩む
親子を描いたものです。
シチュエーションとしては興味津々の作品でした。
主人公の息子の名前も「ケイタ」と
わたしの息子と同じというのもあって、いけるかな
と思ったのですが
途中で二回睡魔に襲われて往生した。
淡々としたドキュメンタリータッチというのが
感情移入を妨げたのか、こういう描き方が海外ウケ
するのか、トレンドなのか?
いやいや是枝監督の『誰も知らない』は
そういう淡々としたドキュメンタリータッチでも
グイグイ引き込まれたんだけど・・・
主演の福山雅治はもともとこういった尖がった役柄から
出た人でそれはそれでいいのでしょう。
以前ちょいす姉さんがいっていましたが
双方の母親役(尾野真千子と真木よう子)が
入れ替わってたほうがしっくりきたには、同感
だったけど、それが致命的とも思えない。
なんでなんだろう・・・
どちらの作品も舞台設定は非常なもの
なのだけど、『誰も知らない』のほうが
やはり若干は他人事なのかなあ・・・
つまり、子を持つ親として『そして父になる』は
身につまされる喉元に突きおしあてられた
ナイフのようなものであり、
そのぶん設定自体が他人事では済まされない
ある意味で「自分だったら」という真剣さが
作品のリアリティー演出よりも
もっとマジでナマであったせいではないか?
自分だったら・・・
あそこであれはないんじゃないか?
そこがポイントじゃないだろう!とか
感情移入どころかそういったマジさ具合が
作品と自分の感覚と乖離していく結果になった
のではないかと思いました。
私たちが、いやわたしが
外国映画を鑑賞する場合にそこで描かれる
「外国人」の立ち振る舞いに違和感をもっても
まあ文化も生活様式も異なる外人のことだもん
となかば大目に大雑把に寛容に納得するものです。
いまだにヌーベルバーグ以降のフランス映画は
わからんものですたい。
日本人に一番近いアメリカ人のハリウッドものでも
ま、アメリカ人のことだし、と
他人事の寛容さでそのなかでストーリーに付き合う。
ところが邦画で、ドキュメンタリータッチとか
そのなかでのリアリティー演出とか
はたまたシチュエーション舞台設定がモロ接近してたり
すると逆に超シビアになってしまう。のかも
映画は映画ですからねえ
寅さんで寅さんとか「とらや(くるまや)」の人たちの
会話はドラマ仕立てのものであり、普通ああいう
イントネーションで語られる現実はありえない。
それは作品全体の登場人物の台詞にもいえるわけで
みんなそれを承知で観てるわけだ。
それに対して嘘っぽいなんていう人は・・・
なかには最近はいるかもね(汗)。
一昔の前の東京の女性の言葉使いとか
時代劇の子役の話し方とか
年寄りの長州訛りとか
アニメの冷酷な指揮官・参謀の台詞とか
気にしたらいくらでもあるんでしょうが
まあそんなこと気にしてたらキリがない。
一番わかりやすいの事例でいくと
幕末ものとかでリアリティーを出そうと
薩摩藩士に鹿児島弁を使わせるとして
鹿児島県人でない人には違和感はなくても
鹿児島県人にはこれほど胡散臭いものはない。
あんな西郷さんなんて知らないとドン引きです。
それはどこの地方でも同じだと思うのです。
他人事じゃなからねえ
だから、リアリティーも諸刃なんだと思う。
皮肉なことに
身近すぎても不味いんだね。
『そして父になる』は2013年5月18日に
第66回カンヌ国際映画祭でコンペティション部門
として上映された。
上映後、約10分間のスタンディングオベーションに
是枝監督や福山らは感極まって涙を流したそうです。
それにケチをつける気はさらさらないのです。
ただ、その審査員たちにとって
これはあくまでも他人事(東洋人日本人)の
寛容さというのが
あったのかなあと考えると・・なんかね。
それでも 審査員賞を受賞したこの作品は
そのニュースから話題となって
日本でこの手の日本映画としては
破格の観客動員と興行収益を記録した。
直木賞芥川賞の受賞作品同様に
わたしたちはそういうのに弱いんですよね(汗)
話題作 鑑賞後の戸惑いに
寡黙になれと 風は囁く
「いろいろな意見があっていいんです!」
そんなときこんなエールをおくられた日には
わたしや立つ瀬がないから臍を噛む