あかんたれブルース

継続はチカラかな

分福もののけ漫遊記



唐の都洛陽の西の門の下でたたずむ
一人の男がありました。
名を杜子坊といつて、世俗に愛想を尽かし
仙人になろうと泰山で修行したのですが
自分の体質が仙人には向かないと悟り、
山をおりてしまったのです。
といって、なにをどうするしたいわけでもなく
洛陽の都で人々の行き来を眺めながら
今日も黄昏ていたのでした。

唐の役人認証官たちは四合院の邸宅に住んでいる。
現在の社宅・公務員住宅みたいなものです。
当時これを囲む壁に落書きするのが流行っていた。
といっても庶民文化ですから愚痴や自慢や罵倒やら
他愛のないものがほとんど。
口の悪い者は便所の落書きといいますが、
杜子坊はヒマだったのでそれを読むのを
日課としていました。

ある日、そのなかにハッとさせらるものがあった。
それは大そう純粋で清らかなものでした。
杜子坊にとって癒しというか
救いのような可憐なものだったのです。
その言葉に自分と同じ匂いを感じた。
それは淋しさとでも表現されるでしょうか。
世俗に対する淋しさであり
人間というものに対する淋しさでもあった。
迎合すればいいのをそれができない。
そういう杜子坊の淋しさを知るものはいない
と考えていたときに、その言葉と出合った。
無論それは杜子坊だけの琴線にふれるもの
だったのかもしれません。
言葉というものに
まだかすかに力が宿っていた時代でした。
その力に魅了されてしまったのです。

翌日その壁に行くと新しいものが書き足されていた。
それを毎日読むのが楽しくなっていた。
そうなるとこの書き主の正体を知りたくなるのは
人の常というもので、
ある晩その四合院の壁の近くに身を潜め
書き主が現れるのを見張っていた。

夜が更けてもなかなか書く主は現れない。
ときはすでに五更の太鼓(am3時)が鳴っていい頃
今夜はもうあきらめようか・・・と思いつつ
ついフトウトとしたときそのときに、
壁に丸い影がカサコソと蠢いているではないか。
スワ、これこそはと勇み出て手にした提灯で
その影を照らせば、
一匹の狸が壁をゴシゴシ拭いている。
不意をつかれた狸は
市内巡回の警備兵かと思ったらしく
「ゴメンナサイゴメンナサイ」と手で拝む。
それのポーズがアライグマのようでもあって、
「そなたは狸かアライグマか」と問えば
「パンダちゃ~ん」と品をつくるので
「なんだ熊猫か。熊ね」とみょうに納得して
そんじゃ、と立ち去ろうとすれば
「ちょっと待つたんかい。
 なんで猫がでんのや子猫やでにゃ~ん」
それを無視して我に返った杜子坊は
自分は警備兵ではなくカクカクシカジカと語った。

その話を聞いてこの狸の鼻から鼻水がた~らたら
よく見れば目がウルウルで泣いている。
どうしたのかと問えば、今朝から何も食べていない
いや昨日からとオイオイ泣き出してしまった。
こら泣くな本当に警備兵が来るぞと
懐から夜食のキビ団子の包みを渡せば
ビタッと泣き止み
旨そうにペロッと全部平らげてしまった。

よく観るとこの狸、体に茶釜を背負っている。
いやそうじゃない。亀の甲羅のように茶釜から
手と足と首と尻尾が生えている。
着ぐるみならぬ茶釜ぐるみの狸なのです。
「そんなもの身につけて不自由はしないか」
と問えば、
ご主人様聞いてくださいと
(この野郎、キビ団子やったらこれかよ)
場末のスナックのホステスのように
身の上話がはじまりました。

聞けばこの狸、もとは人間だったのですが
呪いがかかって狸になって
それにまた呪いが複利で雪だるま
遂には茶釜を背負って、こんな感じと嘆きます。
月の法善寺の水掛不動さんにお参りしたら
洛陽の壁に落書きすれば呪いが解けると
お告げがあったと。
狸はそれのお告げに従って三月前から
夜ごと洛陽の四合院の壁に徒然を綴っていたのだと。

そこまで話したとき
杜子坊が手にする提灯が風に煽られて
灯が消えた。
一瞬、あたりは漆黒の闇に包まれる。
そのとき、雲に隠れた月が姿をあらし
月光が狸を照らした。
そこは可憐な乙女の姿があった。
狸は女人だったのだ。
そこでようやく杜子坊は
あの壁の書き主と
この狸が同一人物であることに
合点したのでした。