あかんたれブルース

継続はチカラかな

それという認識の罠



今日ね、透析中にNHKで二人の医師を
紹介する番組を観てたの。

一人は北海道のお医者さんで
患者に対する医療行為はもちろん
精神的なバックアップをされている方
その思いを言葉に託されて伝えていた。

もう一人は沖縄のお医者さんで
生死についての問いかけを浄土真宗に求め
それを伝える方でした。

どっちも教育テレビだったかな
よかったよ。沁みたでござる。

で、そのとき手元にあった本が
『倫理とは何か』という哲学本。
暇つぶしに読んでいるんだけどさ。
若者向けにわかりやすく構成された
会話形式のものなんですが
くだらねえなあ、とゲップがでたよ。
上記のふたつの番組があったもんで余計に
そう感じたんでしょうね。

わかりやすく、というコンセプトなのに
なんでこうまだらっこしいんだろう。
まるでそういう言い回しとか思考法が
この哲学ゲームのルールのようだ。
そう考えてしまうわたしは
哲学的な人間じゃないんでしょうねえ。

そういった哲学のジレンマを
上記した2本の番組は
すきりさせてくれるのです。
そこには人間の生死。人生、ライフ、
生活という生と活があった。

私たちは生きることを「活」だけに
求めてしまっている。
無論、生きていくには食べないといけないし
仕事して稼がないといけない
勝負には勝たなければいけない。
そういうのを「活」というそうなのですが
そういう活だけでは生きていけないんだと
生きていることにはならないんだと
おっしゃっていた。

人はパンのみでのあれだよ、あれ。
米もある麺類もある、だっらケーキを食べたら
じゃないぞ(涙)アントワネット!

哲学と宗教っていうのは
まあ同じ会社だ。
部署が違っても、もともとは
総務部から人事部と管理部にわかれたような。
広報部かな?
科学とか芸術もおなじ会社だね。
出処はいっしょ。
なんだけど最近はタテ割りだよねえ。
こういうところから不自由が生じるのかも

メモとってたわけでもないし
ときどきウトウトしながら聞流していたので
正確にはお伝えできないのですが
なんてろさんとかいう
ユダヤ人の学者の言葉を紹介していました。

私たちは考え方ひとつで世界を2つに分ける
ことができる、とかなんとか。
世界はひとつ、ではないんだ(汗)
それは、その考え(方)とは、
「我と、汝」
もうひとつは
「我と、それ」
なんだそうです。
だいたい俗物である現代の我々は後者の
「自分に対する(以外の)ものをそれ」と
認識してしまうものだそうです。
これがつまらなくしてしまう原因なんだそうな。

汝とは、自分以外の特定の誰かを意識することで
ここではそれを神としてるようですが
まあそこまでいかなくとも
特定のだれかでわたしはいいと思うけどね。
しかし、それさえも煩悩だ云々と糾弾する
人はいる。

違う。

煩悩というものを正しく理解していないから
そんな屁理屈を捏ね回すんだ。
番組ではそういう点も語ってくれてましたが
なんかそれ聞いてて
あの分福の茶釜は煩悩具足なんだなあと。
我ながらしみじと思うのでした。
なんとなくそんなふうにしたんだけど
そう間違ってはいなかったんだね。

人はなぜ悩み考えるのか
なんのために?
幸せになるためなのかなあ

その幸せとはなにか

まさか悩み解消だったりして。
だったら考えるなよ。

それができる人とできない人がいる。
できる人が優秀で
できない人が愚劣ってことはない。
無論、その逆も。
悟りなんかでそれをなんとかしよう
なんていうのもムシのよい話なんだな。
それは人間が背負っていかなければならない
宿命なんでしょう。
仮にそれを「病」と解釈すれば
その軽重はべつにして
自覚症状がない人とある人が存在する。

どっちが幸せなんだろう。