あかんたれブルース

継続はチカラかな

健さんの抑止力

男は黙って醤油ラーメン・12


謙虚を一流の処世と位置づけました。
ここで、問題が生ずるとすれば
『他人を攻撃せずにはいられない人』たち
への対処対応ではないかと思うわけです。
また、個人から組織共同体国家とした場合に
中国や韓国・北朝鮮への対処対応。
ひどいよね。

そういう連中に謙虚は逆効果で
ずんずん増長させる結果になるんじゃないか?

健さんの場合は我慢に我慢を重ねて
最後の最後爆発させる。
やくざでなくとも『居酒屋兆治』でさえも
鼻持ちならない伊丹十三をぶん殴っちゃたもんね。
観客としてはねスカッとする。
そこには大義名分もあるでしょう。
ただ、もし伊丹十三の打ちどころが悪ければ
もしくは訴えられて傷害事件になったら
国家であれば戦争になったら
勝ち負けじゃなくてさ。
結局それが『幸福の黄色いハンカチ』だったわけで
『冬の華』だったり『網走番外地』なわけだ。
ま、傍観者はそれでもいいけれど
加害者としての自分に置き換えて、はたして
それを一流の処世なんていえるのか?
という疑問は当然出てくるわけだ。

卑下慢の話をしたよね。
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/55295339.html

私たちはテレビの健康番組とかで
黄な粉がいいとか椎茸がいいとか南瓜がいいとか
なるとカタキにしてそればっかり喰おうとする。
それじゃあ栄養が偏るわけで健康を害すわけだ。
リンとかカリウムは人間にとって重要必須の
栄養素ですが摂り過ぎれば害になる。

中庸って言葉を持ち出すと曖昧と捉えられるけど
要は、「謙虚」は基本姿勢であって
それを担保にグイグイいくのは謙虚慢という
トラップに陥ることではないのかと。

昨今、集団的自衛権などが問題視され騒がしい。
抑止力という言葉させも問題視されている。
抑止力の言葉の捉え方にもよるかもね。
でもさ
孫子いわく「戦わずして勝つ」は最上の戦略戦術
だったではなかろうか。
米内光政であっても
「力は正義の後ろ盾となるものであって
 力即ち正義ではなく、また、そうあってはならない」
といって戒めてもいた。わけです。

その意味で
健さんには抑止力というものがあった。
それは、ムショ帰りだとか
背中の唐獅子牡丹の刺青をちらつかせたりとか
そんなセコイことではなく
毅然とした態度だったはずだ。
寸鉄も帯びずとも
非道卑劣には絶対に屈しない姿勢だった。
そういう魂胆が根性があったから
天津敏にしても遠藤辰雄にして悪徳は畏怖した
わけじゃないか。だけでなく
周囲も下手なことはできなかった。
田中邦衛にしてもだ。

映画の話じゃなくてだぞ。

そういうなかで謙虚という姿勢が大事で
これはパフォーマンスじゃないんだよね。
それは、
あくまでも自己姿勢のあり方であり
武道でいう自然体の構えのことだ。
そこからいかような攻め(アクション)にも
転じられるもの。
だから効果効力があるわけで
スポーツでも同じ。なんでも一緒だよ。
ハナから刃物振り回すのが抑止力ではない。
それなのに、どっちかしない今の私たちの
思考とか発想はどこか子供じみていないか?

そういうことを健さんの「目」が語っている
わけではないのか。
もっとも、健さんがすべて正しく理想のすべて
ではなく、そこに不器用という自嘲が付随するのは
それだけじゃだめなんだということでもあって
決して健さんはそれをオールマイティーとしてた
わけではありません。
そこに健さんの謙虚があるわけだ。

昭和という時代、また日本人という
ひとつの在り方としてのカリスマが伝えるのは
この「謙虚」であり
これは人間が生きていくうえでの
一流の処世であると思う所以なのでありました。

尚、『他人を攻撃せずにはいられない人』たち
に対しては著者片田珠美先生が仰る通り
徹底的に無視。相手にしない。
距離をとって避ける逃げる。
これ別に卑怯じゃない。
毅然として、もしなんか仕掛けてきたら
そのときは腹括って、やる。
常にそういうリスクはとる覚悟というものが
必要なのではないかと、思います。
そういうのがない人は信用できない。
『他人を攻撃せずにはいられない人』たちは
そういうところに寄ってくるもんだ。

好戦的に駆逐しなくとも遁走せずとも
断ち枯れ根絶やしにすることは出来る。
私たち個々の在り方ひとつで。