あかんたれブルース

継続はチカラかな

他人の不幸は蜜なのか

男は黙って醤油ラーメン・13


渡る世間に鬼はなし、が
歌は世につれ世は歌につれTVにつれつれ
渡る世間は鬼ばかり、になっちゃいました(汗)
そういうのをすべてピン子のせいにするのも
いささかどうかとは思いますが
まあ一番落ち着くわけだ(笑)

それ以前から
他人の不幸は蜜の味、なんて申します。
なんとも世知辛いしかし正鵠を射るような
人間臭がぷんぷん丸の金言だ。
いくら蓋してもだめだよ。
それじゃあ何も解決できない。

こういうのを人間の本性・本能とするのか?
性悪説性善説かじゃあ話は泥仕合だ。
ルソーはこれを性善説から
『社会契約論』を唱え、
もともとは自由に生まれてきた人間が
やがて「鉄鎖」につながれていった。として
『人間不平等起源論』でそれは環境が所以で
この社会環境から
私たちは他人にどう見られるかを
強く意識しだしたからなんだと説くのです。
ここに、こういう傾向が生まれてくる。
(1)他人の不幸を見る喜び
(2)他人の幸福を見る悲しみ
(3)自分を幸福に見せる喜び
(4)自分の不幸を見られる悲しみ

人の不幸は蜜の味はこの(1)からなんでしょうね。
フロムの愛されることばかりに気をとられ
愛することがお留守になってるよ、の提唱も
ここからじゃないかと推察する。

人間の鉄鎖とは欺瞞と嫉妬かあ・・・
抜き打ちの持ち物検査みたいでタジるでござるな(汗)
ま、これも社会環境からのもので
これが本来の本性すべてじゃない。と踏み込んでみる。
つまり
この(1)~(4)の逆があるわけだ。
他人の不幸を見て悲しむのは
本や映画のバーチャルからリアル世界でもある。
他人の幸福を喜ぶことだってある。
スポーツ観戦とか。
自分の幸福をみせる悲しみ?
これは・・・周囲への気配りとか?
そこで悲嘆にくれてる人がいるのに
自分だけロト6が当ったとはしゃげない悲しみか(汗)
自分の不幸を見られる喜び。これはよくあるね。
エバさんの素行とか悲劇のヒロインとかね。
美徳からセコイのまで網羅してる。

・・・踏み込んだはいいけれど
な~んかぬかるみに踏み込んでしまったような。
泥沼とはいわないけれどなんか曖昧だなあ

映画を通して考えてみる。
私たちは映画を観て感情移入します。
喜怒哀楽するのだけど
ここでは他人の喜びを素直に喜び
悲しみに涙するわけです。その涙は感動でも流す。
ここに「他人の不幸は蜜の味」の入る隙間は
非常に少ないのではないか?

チャップンの失敗を腹を抱えて笑うけれど
そこに親愛の情はあってもはたして優越感はあるのか?
寅さんが馬鹿やったり失恋したり、
山下清がとぼけたことやってるのを観て
優越感に浸るのは馬鹿だ。
また、そこに「無意識の」と持ち出す分析者も馬鹿です。

とは別に人間には残酷性があるともいうでしょう。
そりゃあるねえ。あるよ。
あるけど、映画を通してそれを満足さえるか?
たとえば
健さんが殴りこみかけてドスが血しぶきに
残酷性を満足といえるかなあ。
座頭市に用心棒に桃太郎侍にまむしの兄弟に。
そこにはそれなりの理由があるわけじゃん。
その前に相手方の非道があるから
それに対する怒りの発散だよね。
それを抜きにして残酷性を云々いうのは変じゃないの。

ゲームなどで残酷性だけをピックアップする
ものがあります。
また映画などでもスプラッター物のジャンルもある
あるけどさ、それは亜流の徒花で
マニアックな趣味から一歩も出ない。
見世物小屋と映画の違いだ。

わたしが園子温を認めず
北野武に歯痒さを感じるはそこからだ。
前衛とか斬新とか芸術とか
そんな言葉を担保にせずもっと映画というものを
理解すべきじゃないのか。

中島みゆきの歌に
悪女になるなら月夜はおよしよ
素直になりすぎる
というのがあります。

銀幕の世界は虚構かもしれない。
でもさ、そのスクリーンは鏡のようだ。
私たちそれを通してその世界を覗くと同時に
自分を映し出している。
その鏡を通して自分を見つめているんだ。
その暗闇は常に月の光に照らされている。
劇場はいつも月夜の晩なのさ。
私たちはその光を求めている。