あかんたれブルース

継続はチカラかな

アメリカの良心と日本の不器用

男は黙って醤油ラーメン・15


たかが映画されど映画の一席です。

メディアとして
書籍や新聞、テレビなどなどの影響力は大きい。
映画もそのひとつです。
放送大学でメディア論をやっててつらつら
眺めていたんですが、第一次世界大戦から
第二次世界大戦にかけて、それを
プロパガンダに大いに活用し、また確立された
と解説しておった。
対するところは群衆です。国民ね。
マッキャベリーでさえもこの群衆が要注意だと
口を酸っぱくして警告していました。

プロパガンダとはなんか物騒な感じですが
それほど私たちは影響されやすい。
雰囲気に弱いのだ。流されやすい。
権力者とか企業やマスコミはそれを利用する。
ここにはニワトリとタマゴのような関係があり
いやあミイラ取りがミイラかな?
利用してるようで制御不能になって
逆にそれに動かされてしまう傾向がある
諸刃の剣なのだ。

それを踏まえたうえで、
映画もそういうなかに入れるのか?
という疑問も生まれるでしょう。

入るね。

ドキュメンタリーだけじゃなく
反戦だけじゃなく、戦意高揚だけじゃなく
芸術だろうがポルノだろうが時代劇でも
恋愛コメディーでもなんでも
寅さん市っさん健さんすべてにそれはある。

そういうのが寅さんと座頭市を重ねて語った
「お約束」の話でしたし、
今回の健さんの在り方についての
餡子の部分なんだと思う。

人間は自由を求めている。
この自由とは野放図な自由ではなく
アイデンティティーの確立です。
そのための自己確立にお手本を必要とする
ならば、映画スターというのはかっこうのそれだ。
憧れにはそういう意味もある。

アメリカ人を代表する映画スターを一人
あげるとするならば、
ゲーリー・クーパーになるんだと思う。
アメリカの良心」といわれた俳優。
ジョン・ウエインじゃないんだな。
ジョン・ウエインは強いヒーローではあっても
アメリカの良心じゃあないものね。

日本映画からそういう映画スターを
一人あげよというならば
高倉健だ。
このシリーズを書きながらしみじみ痛感しています。
三船敏郎でもなく勝新太郎でもなく
石原裕次郎でもなく断然、高倉健となる。

任侠だからじゃない。
東映を離れたあとの健さん
残侠を背負ってはいたが、それだけではなく
組織人として、仕事人として、日本人としての
それを背負っていたカリスマだ。
それはクーパーのような完全無欠の良心じゃない。
未完成で未熟な「不器用」を背負っていた。
それを私たち日本人は求めていたのだ。

ここが欧米人と日本人の違いなんでしょうねえ。

理想でありながら、憧れの存在であり
模倣の対象、偶像崇拝的存在でありながら
不器用というものを背負っている。
それは決して「いいわけ」なんかじゃない。
あのストイックは
謙虚は
そういう人間が日本人が生きていくうえで
必須のものだったんでしょうねえ。

人間生きていけばそれぞれに
いろいろなものを背負っていくものです。
その重さに身動きとれなくなったり
くじけてしまうこともある。
それすべてを意識したかどうかは知らないけれど
高倉健は自分自身が背負うものを
寡黙に背負っていく姿を演じきってみせた。

観客はその姿に感銘をうけていたんだなあ
斬った張ったの健さんではなく
この不器用な男の生き様に昴をみたんだ。

これって意図したものか意識的なのか
どうかはしらないけれど
確実にプロパガンダだよね。
そして高倉健はカリスマだったわけだ。
無論、健さんを知らない人や
そうではない人もいたでしょう。
それでも確実に高倉健の時代はあり
日本人のスタンダードとしてそれは根付いた
ことに間違いない。
そういう意味では渥美清も似ている。
映画ってやっぱりすごいと思う。

たかが映画されど映画
いや映画であればこそ、ではないのでしょうかね。

だからたけしさん、ふっきってくれよ。
あなたが背負う暴力に対する悲しみや痛み
怒りを静めて、その先にあるものを表現してほしい。
そこに立ち止まらずに
周囲の評価なんか気にするせずに
新しいと古いとか
そういううたかたなものではない
作品を撮ってほしい。
あなただったらできるはずだ。