あかんたれブルース

継続はチカラかな

売国奴という表現の逆効果



表現について、長らく色々記事にしてきました。
そのアプローチは非常に難しい。

イスラム国(ISIL)の言動とか
それを批判するためか挑発してるのか
ニワトリとタマゴ状態の風刺画や運動とか
日本の野党の国会質問の内容とか
マスコミのスタンスとか
ネットによる各人のメッセージとか
昨今、考えさせられることが多々あります。

表現の自由とあるけれど
その自由には責任を伴うということが
見落とされているように思う。

表現とは伝えることであり
誰に対して何を目的にするかがポイントだ。

正論と現実の話を記事にしてきたのも
その誰が誰なのか、それが世間という
不特定多数の場合、現実という条件が付随する。
この「現実」は非常に厄介なものです。
これが個人的なコミュニケーションになって
同じ考えを持つものたちの間でさえも
突詰めていくと問題やズレは生じてしまうもので
そこから違和感や不信感、衝突、対立が生まれる。
数秒か何年か……
時間軸の長短だけなのだ。
恋人であっても夫婦であってもこうだもんね。

それと同時に
何を目的にするかにはそれを伝えるための
戦略が必要なんだよなあとしみじみ。
それを痛感したのは昨年の衆議院選挙で
次世代の党の惨敗でした。
主張してることは真っ当なのに
国民からは総スカンという結果だったこと。
それをマスコミのせいとか
選挙に不正があったことなどいうけれど
まず第一は上記した表現手法戦略にあった
のではないかと思う。
それは在特会にしても同じで
次世代の党はマスコミと在特会に足を引っ張られた
といっても過言ではないと思うのです。

それ以前にあれは都知事選のときだったか
次世代の党から出馬した田母神俊雄氏の
応援演説に駆けつけた人気作家百田尚樹
「(他候補に対する)人間のクズ」発言。
たとえ、それが本当であっても正論であっても
その言葉を応援演説で用いることは
結局は贔屓の引き倒しになることを
この作家は作家のくせにわかっていない
んだなあとがっかりさせられました。

言いたい気持ちとその目的と効果。
現代人はこれが気持ちの衝動のほうが勝ち過ぎてる。
たぶんそこに、正論正義とか言論の自由とか
あるんだと思う。もっといえば、
言わないことが卑怯ではないか、という強迫観念か。
昔、発言に対する玉虫色という表現がありましたが
どうもその後遺症から白黒はっきりさせるのが
正義だとふうに傾いてしまったままのようです。

寅さんにいわせれば
「それを言っちゃあお仕舞いよ」
的なことが多々ある。どころかだらけだ。
言わなきゃ損みたいな風潮さえある。

モノを言うなといってんるんじゃない。
そこには責任が必要で、もっといえば
リスクが伴うことを覚悟しておかないとあかん。
また、モノを言ったり書いたりすることは
恥をかくことでもあると。

で、本日の本題はココからなのですが
鼻息の荒い右利きの方々の主張に
わたしも「そりゃそうだと」と膝を打つこと
溜飲を下げること多々あります。が、
ひとつだけ表現として
売国奴」というの言葉の多用乱用はいただけない。
これ、やめたほうがいいよ。
石原さんが「三国人」を使った以上に
時代がかったハッタリっぽく
なんでこんな時代がかかった手垢のついた言葉を
わざわざ引っ張りだしてこのきゃあいけないのか
わからない。
頭の悪い人が漢字や外来語を乱用するのと
似てるような気さえする。
結局、一般市民はこういう表現にドン引きだ。

売国奴売国奴といって何が悪い!」
と反発する方もいるのでしょうが
それを「ブスにブスといって何が悪い!」
と重ねてみてご覧よ。
「馬鹿に馬鹿といって何が悪い!」と同じだ。
尚且つ、日本には「馬鹿っていう人が馬鹿なんだよ」
という教えの不文律がまだ残っている。
ただでさえビビリ根性の民衆意識には刺激が強く
またイコールそれと過去にその言葉を使った
時代とリンクさせてしまい、危険信号を発する。

「それを言っちゃあお仕舞いよ」
で、その主張の中身よりも
その表現のディティールで判断されるのが
お決まりの定めなんだよなあ。
たとえそれが正論でも正論なんてアテにならない。

司馬さんの「この国」という表現さえも
問題視されそれが流布されお定まりなってしまう
時代なのです。
あれは最初軍部が批判したことだって
最初の言いだしっぺ君は
知って批判したんだろうか?
解釈の仕方以前にまったくワケわからん。

ヘイトスピーチにはどこぞの国の工作員
混じっているとも聞きます。
さもありなんと思う。
暴力団が右翼活動に奔ったことや
その右翼の行動に「?」を持つように
ネットでの逆挑発活動は実際にあり
それは効果的でもあったりする。
それほどに情報多寡は私たちを翻弄し
メディアリテラシーといっても
そう簡単にいかない環境にあることも認める。

だから、こそ「表現」には気をつけないとあかん。
ツッコミ処も同じで
民主党とか野党のツッコミの不味さ甘さ低次元さを
具体例として肝に免じないといけない
とわたしは思うけどね。

ケツかかれてコケにされてるんだぞ
少しは悔しがれよ。