あかんたれブルース

継続はチカラかな

戦前の教育改革

旅路の果てから(2)

昨今、教育改革についてよく話題になっていますよね。
こんなわたしでさえも一昨年前までは
白真剣で文科相まで乗り込んでいったものでした。
そんなわたしでも、戦前の学校教育は封建的な
古臭い時代錯誤的なイメージだった、のですが、と。

この小原國芳という人物を知って
その伝記をつらつら読み進むと大正、いや明治から
本の学校教育の是正や改革の動きには
今以上に大きな流れがあったようです。

そのなかでも小原國芳はもっとも先鋭的な改革派
ある意味では異端児だったといえるかもしれない。
といって氏名は鹿児島師範→広島師範卒という正統派です。
広島高等師範から(日本教育界の大御所)沢柳政太郎
新設の成城学園前の運営に参画し、後に
自ら玉川学園を創設者した人物です。

その教育スローガンは東大を頂点とする
現在でも変わらぬ風潮に対する危機感からだった。
こういう教育では日本を担う人災は育まれない。
その思いから昭和17年に玉川学園内に誕生日させたのが

興亜工業大学、現在の千葉工業大学なのだ。

昭和17年といえば太平洋戦争戦争真っ只中
シンガポールを陥落させた年
ミッドウェーで惨敗をきっした勝敗の分岐点の年
(しかしそのことは公にはされていませんでしたが)

そんな頃に誕生した大学であれば
軍国主義に染まった軍隊に従属するような技術者学校
じゃあなかったのと思うかもしれませんが
ある意味では日本の敗戦を予感したのかもしれない
と同時に以前からの課題でもあった
東大、陸軍士官学校海軍兵学校的な教育では
バランスのよい人材を育てられないという危機感が
この学校を生む原動力になったのだ。

そういう危惧感は軍の首脳陣のなかにあったのです。

たとえば、井戸川辰三という陸軍軍人がいる。
日露戦争時は軍事探偵として活躍した人ですが
戦後支那通の中国武官としても暗躍した、彼の中国リポート
には彼の国が長い科挙システムの弊害から暗記偏重に
陥って人材が劣化していると指摘するしています。
つまり、日本はそうであってはいけないという警告でもある。

軍人がみーんな馬鹿で狂信的な者ばかりでは
なかったんですよね。
ミッドウェー海戦の敗北は人材の損失にもある。
それを省みずにその後も貴重な人材を消耗させていくのですが
その年に、人材こそが一番大事と考えた人達が
いたというわけです。

なんかさ、判で押したように
先の戦争は軍部と右翼の暴走とする金太郎飴の
台詞がもっともらしく幅をきかしておりますが
そんなに単純なものじのじゃあないんだよね。