あかんたれブルース

継続はチカラかな

明治人の気骨

旅路の果てから(3)

成城学園や玉川学園は小田急線沿線にあり
園都市として草分け的な街ですよね。

その成城学園創設者であり、
小原國芳を広島高等師範からヘッドハンティングした
沢柳政太郎という人物にふれておきたい。

慶應元年生まれで藩閥外の松本藩出身。
帝大から文部官僚へ進エリートコースを邁進した人物で
官僚の頂点たる(文部)次官を勤めた後に
東北大、京大の総長を歴任した。と書くと面白みもないけれど
沢柳が俄然活躍したのはその後からでした。
当時、陸軍士官学校の予備校とされていた
成城学校の校長に就任すると隣接する敷地内に
実験校として成城小学校を設立
これが現在の成城学園前となるわけです。

普通、次官まで上り詰めた高級官僚ならば
後は名誉職で余生を愉しむのが常です。
国立の博物館や美術館の館長とか

しかし沢柳は違っていた。
私立を排斥し官公立至上主義の文部省の姿勢に
真っ向から反旗をふりかざすように
私学経営に乗りだしまたそれを推奨した。
そこには日本の教育制度に対する危機感があったようです。
所謂、東大至上主義では駄目なんだと。

沢柳が文部省次官だった頃に面白いエピソードがある。
日清戦争勝利で日本は清国から二億両の賠償金をせしめる。
その半分を次期世代の人材育成のためにと
薩摩の樺山資紀文部大臣を説き伏せてそれを実行させたのだ。
わたしゃてっきりそれで海軍の六六艦隊編成に使い込んだ
ものとばかり思っていましたが、なかなかどうして(^-^;
しかしこんな突飛な要求を突き付けた沢柳も凄いけど
それを聞いて駄々コネて政府に納得させた樺山も凄い。
樺山は日清戦争時間は軍令局長で海軍No.1ですからねえ
猪突猛進の蛮勇大将のようでなかなか素敵な薩摩っぽです。

日露戦争勝因には西郷従道山本権兵衛の文部省予算
流用の裏にそんなドラマがあったわけだ。
人材とはその育成とは資源の少ない日本の近代化、
富国強兵にもっとも重要な急務の案件だった。
それを日露戦争勝利からコロッと忘れた兵隊坊主が
日本を敗戦に導いたといっても過言じゃない。

そんな沢柳の薫陶のもとで
当時の風潮だった逆風にもめげず
その理想を成城から玉川学園に、そして
昭和17年には興亜工業大学(千葉工大)の設立へと
繋がっているわけですね。

なんかさ、こういう流れを垣間見ると
現在の教育改革が特に目新しいものではなく、
一世紀以上前から叫ばれていた日本の懸案、課題だったわけです。

その課題は常に現場の教職員によって
また、父兄保護者の抵抗によって挫折を余儀なくされている。
その象徴的なものが小原を成城学園から追放した
成城事件だったのではないか。

温故知新というのはちょっと変なですが
沢柳の、小原國芳の教育理念を再度みつめなおすのも
一考ではないのか。

イメージ 1


子供達に限りない可能性とたえまぬ愛情を育む
小原國芳生誕の地のモニュメント