あかんたれブルース

継続はチカラかな

少年はひたすら歩くのみ

旅路の果てから(4)

小原國芳は明治明治20年(1887年)に
鹿児島県川辺郡坊津町久志(現在の南さつま市)で生まれました。
父親は西南戦争で西郷軍として参加。敗れて福岡の獄に投じられる。
恩赦で帰郷した後、金山経営に手を出し見事失敗。
一家は極貧の奈落に転落。
七人兄弟の三男として國芳はそういう赤貧のなかで育った。

父親は酒乱でもあります。
これは鹿児島の風土病でもある。
地元ではこれを「ヤマイモホイ」という。
山芋を掘るからの言葉で
酔うと一心不乱で狂気にはしる様を表したものでしょう。
因みにその陰湿性のものは「ジジラをほる」といいます。
なんか怪獣のようですねf^_^;

黒田清隆も酒乱だったし
わたしの父もヤマイモホイでした。
アルコールには滅法強い民族ですが
それが血の気の多さと化学反応を起こすのでしょう。
小原國芳の父親も酔うと日本刀を振り回して
國芳少年は追いかけまわされたそうで、大変だったようです。

そんな父も國吉芳文が13歳で他界。
母親はすでに2年前に亡くなっていました。
一家7人の苦労はここからが正念場だったのかしれない。

小原少年が通ったのは枕崎の桜山小学校です。
わたしの親友アリちゃんの母校でもある。
しかし、久志から枕崎って遠いよ。当時はバスもない。
いまでこそ坊津のトンネルが開通して車で15kですが・・・
わたしは高校時代にその手前の丸木が浜から
歩いたことがありましたが途中の春日鉱山あたりで
友人が根をあげてトラックにヒッチハイクした思い出あり。

それも小原少年が通学したのは山越ルートだったそうで
土地勘のあるアリちゃんの話ではそれは大変な起伏で
当時はけもの道だったようです。

小原少年は生活の足しにと20k離れた加世田や
その先の知覧まで使いに出て駄賃を稼いだそうです。
気が遠くなる話だΣ( ̄ロ ̄lll)

わたしゃ思うんですけどね
よく非行や問題のある生徒は必ずといっていいほど
家庭環境に問題を抱えているといわれます。
それはそうかもしれない。
そう思う半面、それだけでは割り切れないものが、ある。

寅さんの唄にあるように
♪泥に咲いても根のある奴はいつか蓮の花と咲く
とか、また風雪が人間をつくるとか・・・

そんな小原少年は中学に進学したかったそうですが
それは経済的に許されない現実が立ち塞がっていた。
とも悔しく残念な挫折だったようです。

その苛酷な現実の抜け目をもたらてくれたのは
少年電信技手への道でした。
時は日露戦争まじか
小原少年12歳。
青雲はるかなり