良識派の死が国を滅ぼす
旅路の果てから(11)
大多数ではなかったけれど
小原國芳の理解者、応援者はいた。
教育者、聖職者、実業家だけでなく
軍人にもいたのです。
なかでも海軍の永野修身とは昵懇でした。
太平洋戦争戦争時の軍令部総長で
そのことから東京裁判(極東軍事裁判)で
A級戦犯にとわれた人物。
また、小原が玉川学園前のなかにつくった
興亜工業大学(現在の千葉工業大学)の創設者の一人。
そう書くと現在の風潮では眉をひそめるかもしれません。
でもね、近現代史の観点から東京裁判というものを
その本質を、考えてみるべきだと
わたしは切に思う。
永野はこの裁判で裁かれる前に
巣鴨プリズンで病死してしまった。
一言の弁明のせずに
それは殉死といっていい。
日米開戦に反対だった海軍良識派の一人でもあったのだ。
海軍三長官をすべて経験したエリート中のエリート
ではあるがもともとは政治家志望で東大を受験する
つもりだったとか
その風貌とは裏腹にインテイだったんだね。
教育に対しても熱心で
海軍兵学校校長時代に自学自習のダルトン方式を採用。
永野は当時の上官には絶対服従の受動的な教育から
自主、積極、創造性を重視しました。
この改革は永野一代で元に戻されてしまいますが
こんな永野ですから小原とは意気投合したんでしょうね。
小原の教えをどしどし取り入れた。
海軍軍人であるまえに紳士たれ
という精神は明治の海軍創設にあたって
英国から注入されたスピリットでした。
永野はその信奉者であり踏襲したわけだ。
小原の全人教育と重なるわけであり
後の興亜工業大学(千葉工大)にも受け継がれている。
昭和17年のミッドウェー海戦の敗北の年に
次世代を担う紳士たちを輩出させようという
小原や永野たちの願いには戦争の先にある
日本の姿をみつめていたと思いませんか。
歴史考察において、「if」以上にタブー視されるのが
後講釈というものです。
海軍大臣、軍令部総長であっても時代の流れを止めることは
できなかったという現実をどう受け止められるか。
太平洋戦争が無謀なものであったこと
現代の私たちが理解することはさして難しくはない。
永野の究極の苦肉は
戦わずして滅びるか戦って滅びるか
のしそこに一縷の可能性があるとすれば
永野修身を糾弾することは容易い。
でもそれだけでいいの?ホントに?
そんなんで戦争反対なんていってるんじゃ
また同じ過ちを繰り返すんじゃないのかな。
自民党で日清日露戦争以降の近現代史の勉強会が
行われるそうです。結構な事だと思う。
国会議員ももっと真剣に学んだほうがいい。
そしたら揚げ足を取られるような発言も少なくなるかもね。
合祀が問題?
そんな便宜主義が通ったらそれこそ日本人は滅ぶよ。
そんなふうに思うわたしって右翼でしょうか?
狂ってる。