あかんたれブルース

継続はチカラかな

トットてれびよりも刺激的な夜

昨夜、トットてれびに期待を寄せて
ブログアップしたのが7時25分。
始まるまで小30分時間があるということで
近所に住む郷土史家で作家の新屋敷幸男氏宅へ
面会のアポ取りをしました。

彼の最新刊『南海の舟人』に感銘を受けたから
その舞台が地元ですから臨場感リアリティーがビシビシだった。
と同時に長らく構想段階で足踏みしていた
地元の英雄「原耕」のことなど取材したいという思いもあった。

生憎、幸男氏は鹿児島に行っていて不在
だったのですが、息子さんで市議の幸隆さんより
「来やい、今いっき、焼酎ば飲んが」と誘われて
ま、歩いてすぐ近く同じ町内なので
予備に買っておいた手土産と
名刺がわりの『実録朝日新聞水滸伝 』を手に
いったですよ。

幸隆さんは市会議員であると同時に町内会長でもあるので
母親の今回の訪問販売被害を訴えるのに
ナイスショットとも思えた。

それはそれでその目的は十分はたせたのですが
この幸隆さんは地元で劇団を創り活動してるそうで
原耕もその題材にされ自身で脚本も書かれたという。
そんなわけで原耕に関して資料は十分に収集しているとのこと。
えらいキーマンに遭遇しました。

原耕という人物は日本の鰹遠洋航路開拓の先駆者で
戦前に大型船第一、第二千代丸を引き連れて
東南アジア諸国に南洋探検団をやった冒険王です。
因み、この団員のなかに若かりしわたしの祖父もいたのです。
そういのもあって
いつかノンフィクションとして一本書きたいと
十年ほど前から思ってはいたのですが
それが大きく前進した夜でした。

原耕は隣町の坊津出身です。現在は南さつま市
この坊、泊、久志の三つを南薩ベネレクス陸の孤島という
旅路の果てのもっと果て
あの小原國芳は久志出身者
小泉元首相の父純也はちょっと外れの加世田唐人浜
俗にいう薩摩の田布施だ。

原耕はもともと医師で枕崎市で開業していましたが
黒島流れという大きな海難事故で実家が傾き
それと地元復興に燃え、医院は医師でもあった千代子に預けて
海運業に乗り出し南洋航路漁場開拓に打って出た。
残念なことに第三回目の航海の途中で病死
という不運でその生涯の幕を閉じるのでした。

地元の港の東岸に小さな公園があって
そこに原耕の銅像があったものでした。
港整備のときにその移転話が持ち上がったそうです。
そのとき故郷の坊津へという話がでたのですが
坊津の人達はそれを拒絶した。
原の偉業功績と同等に彼の残した借金は莫大で
リアルにその爪痕を残したようです。
それもあり、妻千代子は居づらくなって
実家の大阪に引き上げたとか。
こういう話を幸隆氏からお聞きしました。

現在の原耕の銅像枕崎市の松尾公園にあり
遠く東シナ海のその先を見守るように立っている。

幸隆氏が脚本した原耕を主人公とする舞台の初日
大阪から原耕の御子息が駆けつけてくれたそうです。
御年91歳でやはり大阪で開業医をなさってるとか。
その舞台を観て泣いていたそうですよ。

栄光の光と影

歴史という舞台で立志伝中のものだけに
スポットがあてられてもてはやされる。
あの龍馬でさえも非業の死であり
司馬遼太郎が紹介しなければ
現在のように広く国民に認知されていただろうか。
西郷さんにしても微妙だし
大久保利通だともっと遠い。
五代サマなんか朝ドラでようやくだもんねえ。

そういう多くの忘れられた英傑の屍の墓標の上に
私たちは胡座をかいて知ってるつもりで
自由を平和を民主主義を語っている。

テレビで尖閣諸島が映しだされとき
あの島にも原の開拓船団が
たちより鰹の加工していたんだろうなあ
そのなかにわたしの祖父もいた。
と感慨深く思うのです。


さてそんなわけで『トットてれび』は結局みれなかった
のでありますが、この新屋敷父子との邂逅
それ以上の刺激を与えてくれそうです。