あかんたれブルース

継続はチカラかな

生ける鶴田死せる東映オールスターズに置き去り

本日の透析シアターは
東映任侠映画博奕打ち外伝』(1972年)
任侠路線から実録路線に代わる端境期の一本。
実に38年ぶりの再鑑賞でした。
19歳ぐらに新宿昭和館で観たんだと思う。

東映任侠映画の最高傑作は同じ博奕打ちシリーズの
『総長賭博』(1968年)が決定版と判が押されてる
のですが、私的には
この『博奕打ち外伝』がイチ押しの一品でした。
そんな思いを38年胸に秘めての再確認だったけど
やっぱりこれだね。

エース鶴田浩二を中心の東映オールキャスト
多分これがこの作品の企画段階で投げられたお題。
それに応えて大変よく出来たシナリオです。
因みに、
『総長賭博』は監督山下耕作、脚本笠原和夫
『外伝』も監督は同じ山下ですが、野上龍雄が担当してる。
健さん、文太の登場場面が絶妙だ。
しかしこの作品でのピカイチは松方弘樹だね。
松方は後に東映のエースとなりますが
主役ではなく癖のある役、もっといえば不具者を
やらせたら良い味を出す。サバのような役者だ。
当然、悪玉なのですが、この悪玉にも大義がある。
これに半々悪玉の若山富三郎との情が絡む機微が
実に良いのだ。

先日『新仁義の墓場』に噛み付いたのは
これじゃあ単なるキ○ガイ人殺しゾンビじゃないか!
という憤りからだった。

勧善懲悪というのが時代劇などのお約束でした。
悪代官にお奉行、悪徳商人に手先のやくざ。
これが茶の間にも浸透して
今日の判断基準価値観となっている。

すくなくとも歴史好きは
家康が善玉で三成が悪玉ってはならない。
やっぱ歴史好きはひと味賢いよね。
近現代史になるとちょっと怪しくなりますが
そこの個人差はホンマモンとバッタモンの差かな。
右翼も左翼も歴史は苦手なのかもね。
ま、皮肉はこれくらいにして

結局この作品は東映版『そして誰もいなくなった』で
鶴田以下すべてのオールキャストが死んでしまう。
生き残った鶴田浩二。普通なら命あってのモノだね
とホッとするのでしょうが、
こんな惨めで無残なものはない。
鶴田は取り残されてエンディングなのだ。
滅びの美学を逆説的に具現化させている。

多くの日本のクリエイターや批評家たちは
この滅びの美学と生死観を勘違いしている。

わたしゃ別にやくざを美学してるのではありません。
もひとつクサビを打てば
総長賭博、仁義なき戦いの笠原は戦争体験者であり
天皇に対しては批判的な作家だ。
その弟分ともいえる野上が奇しくも
笠原の傑作『総長賭博』からバトンを受けて
任侠映画の神髄を存分に描いてくれた。

このへんが三池崇史との決定的な違いであり
東映Vシネマなどの昨今バイオレンスものの堕落
薄っぺらさなのかと思う。
それは悪というものの咀嚼の足らなさともいえるし、
同時に現代の悪の堕落ともいえるのかもしれない。

それはショッカーやナゾーやゴアや宇宙猿人ゴリ
意味なく無条件で世界征服を目指す延長線上にあり
小学生でも疑問を抱く知性の目覚めのはずだ。
そういうのを戦後の風潮が
白土三平松本清張も含めて煙にまいたのかなあ。

笠原は仁義の後、『二百三高地』で
乃木稀典に生きる残酷さを手厳しく描こうとした。
死ぬことで常に決しようとする乃木の生き様。
それを許さない厳しい現実主義者だ。

東映専属社員として
安宿で缶詰になって共同執筆してた
若き笠原と野上の間でそんなようなことが
語られたのだろうかと思うけど
そんなこと想像の域を出ないわたしの戯言だ。

美能幸三の企画でモデルとなる人物の郷里を訪ね
その被差別部落のなかでライ病患者を出したとして
部落民からも差別されるその男の家族の境遇に
泣いていた野上龍雄の『博奕打ち外伝』はやはり傑作だ。
同時にこれは東映エース鶴田浩二に引導を渡す
そんな残酷な作品でもあります。
レンタルショップにあったら是非どうぞ。