あかんたれブルース

継続はチカラかな

平和の戦士の暴走


人間の性に「過剰」と「比較」があります。
過剰に奔り暴走しれしまう性質
比較という思考癖から一喜一憂してしまう。
幸福感というものもこれに支配されている。

先日のニュースで「お金」か「幸福」に対する
選択の意識調査の結果、「お金」に軍配が上がったそうですが
変な質問だなああと思った。
比較の対象にならない次元の違うものなのに・・・
これだったら少し前の「お金か愛か」のほうが
まだマシだったかも。

お金の暴走には
私達が抱える不安というのが大きな要因だ。
備えあれば憂いなしというけれど
ではいかほどあれば安寧は得られるものか

ポピュリズムルサンチマン
この比較から生まれているわけですが
格差社会というのもいっそう拍車をかける。
ISなどのテロも比較と過剰な暴走から生まれた。
これが世界的な問題となってしまった。
暴走した資本主義、履き違えた豊かさがもたらしのだ。

本来、幸せというものは
個人的なものであるはずなのに
それが普遍化し既製化されてしまいました。
そして、その基準で比較するのだ。


ハンドルネーム・ピース君は
世界の平和を願っていた。
願うだけでなく
行動にうつし介護の現場に身を置きました。
当初は充実していた。
必要とされる自分を確認できて幸せだった。

その施設は重度の障害を抱える多数の入居者がいた。
やがて、真面目で一途で純粋なピース君に
現実という壁が影を落としいき大きな壁となっていく。
重度の重複障害、家族からも見捨てられたもの達
そんな環境で障害者はみな従順な性質と考える
私達の偏見がある。
健常者でさえもいろいろな人がいるように
障害者にもいろいろさ。
そんなことはピース君だって理解していた。
ただ、献身的であればあるほど
罵倒や反抗的な言動がときには暴力が
ピース君を傷つけた。
それをヤワな若者、福祉介護者に不適合とか
批判されるだろうけれどピース君は追い込まれていた。

給料、お金の問題じゃない。
感謝されたいだけじゃない。
意思疎通さえできない彼らの幸せってなんなのかと。
朝起きて夜就寝するまで
彼らは呪いの言葉を発している。
彼らは世の中を憎み自分の人生を呪っている。
その口からは毒しか出さない。
そして家族含めてかかわるもの達すべてを不幸にする。

ピース君の比較が過剰になって暴走していきました。
比較としながら健常者である自分と
障害ひとくくりにして比較してしまったのでしょう。

こういう矛盾が払拭されれば
世界は平和になると思いこんだ。
周囲はそれを、その危険な考えるを
押し止めようとしましたが、聞き入れなかった。

狂暴でも粗暴でもなかった
ピース君が暴走してしまった。
個人的な怨恨であればここまでの惨事にはならない。
彼は確信犯として平和のためにと行動した。
このニュースに一番衝撃を受けたのは
介護にたずさわる現場の人達ではなかったか。

ピース君は間違ってる。
それを否定、論破することは容易いけれど
問題はそれじゃあ何も解決されない。