あかんたれブルース

継続はチカラかな

感動の理由(わけ)

付き合いで映画鑑賞だったのですが
わたしにはショウガナシの
二大ファクターが出揃ってたから、
絶対に感動なんかしない自信があった。
ところが不覚にも涙腺が花粉症再発。
洟すすりながら首を傾げて考えていた。
それこそ映画そっちのけで。
なぜ俺は、いや人は、感動するのか? と。

要は、自己犠牲の行為なんだな。
愛するもののために、守ために、死す。
人間つーのはテメエの命が一番大事と造られもした。
だから痛いし、神経が通っている。
ま、なかには粗末にしたり、
それよりカネという御仁もおりますけどね。
そう人たち気の毒な方々のといえる。

また、大往生を最高の生涯と讃える
一方で、自己犠牲の死は「非業の死」とか
「不運」と嘆き悲しまれる代物だ。
年寄りが畳の上で死んだのがそんなに感動するか?な?
自己犠牲の死は悲劇なんだろうか?

その悲しみの本質を問うてみる。
人間は哀しいからだけで泣くんじゃない。
喜怒哀楽のすべてといっていい
ある基準値を超えたら泣く。
その基準値のメモリには
小さな赤字で「感動」と記されているという。

己の命より大事なものってある?
そういうものがある人は幸せだ。
無論、煩悩まみれの私たちは
出来ればその最悪な状況での決断の結果が
最悪でないことを祈ってやまない。
まるで我が事のように。
その期待が外れて人は泣きます。
たださ、涙の理由は期待が外れた悲しみだけじゃない。
その行為に感動しているのだ。
眩しく、そして讃えている。
あり得ない、とんでもないものを目撃してしまった。

大往生より崇拝されているものに平和がある。
この尊い平和の為に命を捧げた者は非業なのだろうか?
靖国を毛嫌いする連中は神道さながらにそれ以上に
生きる事を尊び死を忌み嫌う。
特攻隊など犬死に等しい汚点して吐き捨て
嘆き哀しんでみせる。
無論、特攻攻撃が生まれた背景や
戦果より死に意義をみいだし先導した不条理を
擁護するつもりはない。
ただし、英霊を軽んじる言動理屈には腹が立つ。
彼らは別に天皇陛下のために死んだのではない。
そういことを宣伝してるのは馬鹿左翼と馬鹿右翼だけ。
彼らは、愛するもののために死にました。
もっといえば、平和のために死にました。

その平和を尊ぶ理屈がどれほど正論であっても
正論では感動しない。
人間は生きることよりも感動に突き動かされる。