この世の真理を説いた開祖の出発点はピュアなものでした。
が、せっかくの真理も組織運営者によって改ざんを施されて
その時代と都合にあわせてロクでもないモノに変容していきます。
日本語は英語に比べてボキャブラリーが豊富ですが「ラブ」という言葉は無かったといいます。
最初に和英を試みたのが誰なのか知りませんが、「ラブ」を「愛」とあてはめました。
たぶんキリスト教文化のなかの「ラブ」という理論がゴッチャになったのか?
本来の「愛」は「仁」という慈しむニュアンスだったはずです。
でなければ、
戦国武将の直江兼継の兜に「愛」という文字は埋め込まないはずです。
直江兼継がそれを知ってて特注させたとしたら、それはそれで凄いですが。
仏教では人間は108つの煩悩に苛まれていて、それが故に、
身心を乱し、悩ませ、智慧をさまたげているのだいいます。
「愛」とは、その根本のものだとされているようです。
形あるものは壊れる。カタチのあるものに永遠はありません。
その「愛」にはカタチはありませんか?
恋人であれ、夫婦であれ、親子であれ、家族であれ、それぞれのカタチがあります。
うまく工夫すれば「自分が」死ぬまでは保てるかもしれません。
それを「永遠」とは言わないのですが。
そんな儚い陽炎のようなものだからこそ愛おしく切ないのではないでしょうか。
五木寛之のエッセーに
父親と心中した少年の書き殴りの遺書には
母親に対しての恨み記されていたそうです。
五木寛之は絶句します。
子供に対する犯罪が多発していますが、その加害者が実の親の場合もあります。
幼児虐待もそうです。
もう母性とか父性を免罪符にできる段階ではないようです。かといってこれは、
今に始まったことではなく、報道の扱いの手心で一般的に知れ渡ったというのも
ひとつの要因です。
非道いのは非道いし、気高いものは気高い。
それが真理のひとつのようです。
それはひとつだけではないようです。真理なのに