あかんたれブルース

継続はチカラかな

無能と有能の狭間で戸惑う私たちと乃木将軍

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 福田和也の『乃木坂血風録/人でなし稼業』は小気味よい論法・センテンスで魅了させられました。
 同世代で元気のよい書き手だなあと肝心したものです。
 その批判精神は日本文壇会を敵にまわしても一歩も引かない果敢なものがありました。

 が、昨年の発行でしたか?『乃木希典』(美しい素敵な装丁)
 これで私の彼への評価は一転してしまいます。

 月刊誌二回分の集中連載をまとめて単行本に仕立てたものです。
 売れっ子作家とはいえ、ちょっとお手軽じゃないか担当編集者!
 参考文献に目をむければそれなりの考察もあったとは認めましょう。
 たださ、腕におぼえの達筆なテクニックで演舞を披露していますが、
 これといった「乃木論」が語られたとも感じられません。

 既に、ブックオフに売り飛ばしたので文章表現の一節を正確に記載できませんが、
 乃木という人間を児玉源太郎と対比させて

 「児玉という人間は今の時代にも沢山存在するだろうが、
 乃木という人間は今現在は皆無といえるだろう」とかなんとか、、、。

 いや、福田君。それは違うよ。児玉源太郎はそう沢山はいない。

 児玉源太郎の「人」としてをここで語るのはおくとして。
 司馬遼太郎の『坂の上の雲』のテーマに有能と無能があります。
 「高級軍人として」という前置きを付けて、司馬は慎重に大胆に綴りました。
 前者を児玉、後者を乃木が担当します。それがもとで現在の司馬パッシングのもとのもと。
 その話も脱線しそうなので棚上げします。

 有能と無能とは何か?
 使える奴、使えない奴? 稼ぐ奴、塩漬けする奴? できる奴、できない奴?

 日本人は「弱者」に寛容で「悲劇のヒーロー」に与力する性質があります。
 しかし、乃木は「弱者」なのでしょうか。そうでもあり、そうでもありません。
 司馬が語ろうとした「有能と無能」の「本質」も「そこ」にはありません。

 福田和也はある「志」を持ち「行動」を始めたようです。
 『東京タワー』の成功によって脆弱な日本文壇界に法皇黒幕として君臨することでしょう。
 まあ、それもいいけれど、あの突っ張っていた頃の和君は眩しかったよ。
 俺は福田和也よりも福田和子のほうが好きだな。きっと
 たとえ犯罪者でも若作りのおばさんでも陽気にマラカスを振って歌う和子。
 もし、そのとき側にいたならハモって手拍子と拍手しただろうね。
 決して、そのマラカスに付着した指紋をもって警察に売ったりはしない。後で問いつめられても
 「知らなかった」とシラを切りますね。捜査官にとって私は無能です。
 有能な和也と無能な和子と私の与太話 でした。