あかんたれブルース

継続はチカラかな

見事に生きる事と器用に生きること

 器用な生き方が流行りです。
 たとえば、株式投資でいえばスイングトレードだのデイトレードだの
 たとえば、ビジネススタンスで、ライフスタイルで、
 如何に器用に振る舞うかを諭す本や論調は大盛況です。
 そんなのみんな嘘です。
 
 器用な人はいます。それはそれで資質なので特性として羨ましく思います。
 それに対して不器用な人間は結構な比率で存在します。二八の論理で80%でしょうか

 かといって、私は器用に生きることにさほど価値を認めません。
 この二割が秀でているわけではなく、単なる体質だと私は考えています。
 また、私が知り得る多くの英傑や尊敬する哲人たちに「器用」という要素はありません。
 不器用な者には不器用な者の事情があるようです。

 人間はまだ恐れを知っています。そこから想像力を働かせことができます。
 暗中模索で手探りで歩もうとする本能がありますが、それには相当な勇気と智恵も必要です。
 時には心を石にして、老人のような目に変え、我慢することが幸福の手がかりと達観して、
 喜びを隠すことが上質の処世であり、常に客観的であることが免罪符と信じることもあるでしょう。

 そんなつらい思いをするよりも「手っ取り早く」割り切って「器用」に生きよう!
 このスローガンがウケるのは理解できなくもありません。しかし、それは罠だ。
 本来「不器用な人間」がそれにはまって「器用な生き方を演じる」のは無謀な行為です。

 私たちの歩く道は舗装されたモノではなく、ぬかるんで凸凹で起伏にとんでいます。
 「盲、蛇に恐れず」として自らアイマスク着けたり、汚れることを嫌って下駄を履く、
 これに効果を見い出す智恵は浅はかであり、稚拙です。
 それでは、この道なき荒野を歩くことはできません。
 結局、それほど甘くないのが現実です。

 知性や智恵はその篝火にはなりますが、同時に偽りの妥協案を奏でる厄介な代物です。
 手にする灯火が一寸先の漆黒とのギャップを考えさせてしまうからでしょうか。
 手近な明かりと暗闇に戸惑うよりも彼方の星の瞬きを見い出せるならば、
 おぼつかない足取りであったとしても、少し、少しずつでも前に進む、
 ときおり立ち止まることはあっても、気を取り直して、また、前に進む。
 決して、器用な歩調ではありませんが、見事な生き方ではあると思います。