あかんたれブルース

継続はチカラかな

恥知らずと罵倒されても前に進む殉教者たち それぞれのステージ

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 日本人は「恥」の文化によって成り立っていると言われます。
 北朝鮮テポドン発射をちらつかせ六カ国協議以前に米朝会談を意図しているとか、
 その目的が経済支援にあるとか、のニュースなどを聞くと
 「恥」はないのか!と憤慨する心根には日本人の「恥」のスタンスがあります。
 
 「国家の品格」の「品格」の中身はこの「恥」にあり、
 中国の「面子」とはちょっと違うようです。

 というのも、この「恥」の文化は日本独自のもので、
 世界各国を見渡せば、僅かに南太平洋の島々にあるくらいだそうです。
 では、それ以外の国々は何を拠り所とするかというと
 「罪」だと言われます。

 「恥」と「罪」の文化は宗教や民族とは別次元で存在するようです。

 キリスト教はその「罪」を強調させますが、
 日曜日に教会に通うことが免罪符になるのでしょうか?
 歴史的にかなり酷いことも平気でやりますし、布教のためならば「罪」は棚上げです。
 迫害なんて屁でもありません。十八番です。

 かといって、日本の「恥」の文化がいいコトだらけでもありません。
 これが故に日本人は世間体や慣習や伝統、マニュアルなどに縛られていますが、
 それ自体は諸外国でも同じでしょう。

 問題はその根底にある「恥」の在処であり、
 引っ込み思案で恥ずかしがり屋、シャイで見栄っ張りの原因がここにあります。

 それでも、誰に教わったわけでもないのに、このジレンマに超然と対峙する者たちがいます。
 それは若きツッパリ少年少女であり、ヤンキーたちです。
 これは、一過性のものではありますが、テレビやマスコミで騒ぐほど愚かな行為ではありません。
 大西巨人は「非行とは若者が成長する過程の健全な行為である」
 とかなんと書き残したと記憶します。
 彼らの「目立ちたい!」というスローガンは「恥の文化」の対極に位置しています。
 彼らだけでなく、
 自分なりの自己主張を訴えたいという欲求はみんな持っているのではないですか?

 それを邪魔するものに「知性」とか「智恵」が存在するようです。
 しかし、その「知性」というものが実は「恥」に対する恐れや処世術であるとすれば
 少し考えを改めるヒントになるかもしれません。
 真の「知性」ならば、それに拘束させることに私たちは懸念をもつはずです。
 恥の文化のボーダーラインを踏み出すには、目的というべき「志」が必要です。
 国家の「品格」云々ではなく、明治にあって平成の日本人にないものとは「品格」ではなく
 目的というべき「志」です。