日本人の道徳心や情緒はなにも「武士道」から生まれたものではなく
日本人自身に育まれている資質です。(なぜかは、また次の機会に書き込みます)
だって、日本人は武士(士族)だけじゃなくて百姓町人女性までいるんですよ。
武士道っていうのは新渡戸稲造が西洋人に宗教支配のない日本人がなぜこのように
品格ある民族であるかを伝えるために使ったレポートのタイトルじゃないですか。
それをそのまま額面通りに受け取ってどうするの。新渡戸自身が勘違いしたかどうかは
知りません。そのほうが外人には理解しやすいと考えたのだと私は思います。
日本の道徳心は武士道から生まれたわけではなく、もともと日本人に備わっていたものです。
もともとが大義名分の朱子学ですからボロがでますよ。
それをやっちゃたのがテレビでお馴染みの天下の副将軍・水戸光圀!あちゃー!身内で。
まあ、黄門様も悪気じゃなかった。ただ、朱子学の大義名分を集約させていくと
日本は天皇を中心にまとまらなければならなくなる。尊皇思想が生まれちゃう。
まあ、幕末まで大分時間があるからいいでしょ。そのうち武家社会がボディーブローで
弱っていきますから見ててください。収支が合わなくなって町人から借金をはじめます。
さて、これが雪だるま式だ。
また親方日の丸の役人根性は古今東西ダメな者は80%ダメですからね。例の二八の論理です。
それと戦乱がなくなって次第に武士のアイデンティティーも失われてきた。
賄賂汚職、越後屋、酒、女、腰元きゃーっ、手込め、男色、辻斬り、、、。
そんな中で生まれたのが九州鍋島藩山本常朝の『葉隠』です。忍法じゃないですよ。
行き先のない武士道に「死ぬ事よ」と諭す究極の道。しかし、これは誤解があって、
朝起きて、その日寝床に就くまで、死ぬ気でご奉公しなさいというマニュアル本なのです。
御丁寧に男色の是正措置として「忍ぶ恋」という永遠の愛のかたちも紹介している。
この頃、衆道(男と男)は大ブレーク。それでも社会問題にならないのが恐い
少々うがった書き口になりましたが、これは武家社会での武士の姿勢を諭したものです。
秋山好古などはこれを見事に咀嚼して体現した人物です。だから明治人に学ばなければいけない。
『葉隠』は当時の(武家)世相からは(禁欲的で)苦肉のイデオロギーだったかもしれません。
まあ、これも大義名分です。それ自体が悪いわけではありません。
時代は尊皇、攘夷に傾いているわけです。それを決定づけたのが頼山陽の『日本外史』です。
これは凄い!この一冊で明治維新の原動力になってしまう一冊です。
これで一応の武家社会の崩壊をむかえるわけです。
その頃の武士は何をしていたか。前出の馬鹿侍以外は内職したり田畑を耕したりと
赤貧洗うが如しだったのです。金が敵じゃないけれど、不浄のモノと教えられ。
そんなことをいったら上杉鷹山はどうなるんですか!いい加減にしろですよ。
社会人とか大人とか人間は、嫌とかいって逃げてられない責任があるんです。
不浄のモノでもいいでしょう。だったらそんな糞みたいなモノに勝てばいいじゃない。
どうやったら勝てるのかを考えるのが本筋じゃないですか。言葉遊びじゃダメなんですよ。
誰がダメにしたか最初に借金した家老はとか犯人探しもダメ。とにかく行動しないと
外国の植民地になっちゃう。この国がダメになっちゃう。
薩摩と長州がどうやって金を作ったと思います。薩長は武士の恥ですか?
とにかく侍「武士道」は金に負けました。
私たちが本当に学ばなければならないのは、武士道と現代の中間に位置する「明治」だ。