ここで日本人について私見ですが、書き込ませてください。
色々な本から人からの読み聞きかじりですが、馬太郎なりの解釈としてです。
日本人は宗教に疎いといわれますが、独自の信仰心があります。
また、宗教なんかを拠り所にしなくても生きてこれた民族です。
ひとつにはこの国が自然豊かなオアシスのような国で自然信仰を有しているからです。
また、神に対して寛容な民族で、すべてを受け入れる度量の深い民族です。
八百万の神は「トイレ」にも「大便」「小便」の類にも宿っています。
日本人は当然キリスト教的思考を選択しません。自然には逆らえないと考えていまうからです。
たとえば、過去に30メートルの津波があればキリスト教の科学技術では31メートルの
堤防を作ろう考えます。自然に挑戦しようとするわけです。
日本人はそんなことは考えません。自然には逆らえないので30メートル以上を理解できます。
私たちはなだらかな堤防を作り、その怒りを抑えることに苦心します。自然との共存です。
キリスト教はその布教のためには聖職者が判事になって
現地で洗礼を受けた教徒に有利な判決を出し、布教活動と暴動誘発に寄与しました。
大航海時代の征服者は免疫力のない民に疫病をばらまき、種痘で人口調整をします。
民族や宗教が違えばなんでもできる人達もいます。
塩野七生の「ローマ人の物語」を読むと、その繁栄に50万の神を有する
ローマ人の寛容に想いを馳せてしまいます。
宗教は憎しみ合うために生まれたのではなく、
幸せになるために生まれたと考えたいのですが、それは許されないようです。
童謡に「カラスなぜなくの?」とか「夕焼けこやけで陽が暮れて」がありますね。
どちらの唄にも「烏」が登場します。農耕民族である日本人にとって「烏」は敵のはず。
けれども「山の巣にいる子供の烏」を思ったり、一緒に帰りましょうと歌います。
これは作詞家が思いつきで作ったのではなく、日本人に情緒と共存があるからです。
司馬遼太郎は死ぬ直前にオウム事件を嘆き、テレビを通じて「天然の無常」と叫びました。
これらが神道からきたのか仏教からきたのか、私はわかりません。
私は「日本の自然」から生まれたのではないかと思います。
それを含めて物事には長短両側面があります。すべての物事には光と影があります。
先に指摘した「恥」の文化もそうです。
これまでグローバルスタンダードと唱えて「あがってなんぼ」「数字が大事」という論調も
腹に据えかねていたのですが、一転して、
「情緒」だ「武士道」だ「品格」だ、といって、安易な御都合主義を唱えるのが
もっと腹が立ちました。稚拙です。
それを目から鱗と新聞広告にコメントを出す馬鹿も馬鹿です。
菅原文太もいましたね。