「国家の品格」では真のエリートを求めています。
それが「国家の品格」を取り戻すひとつの手立てだと。
この主張にはひとつのトリックとひとつの眉唾が存在していると私は考えます。
第一にこの「真」というのがくせ者です。
本では藤原さんなりの「真」の定義が紹介されていますが、そんなのお題目にしか過ぎません。
真の真実、真の真理、真の空手、真が付けば皆万々歳で真が空気に付けば窒息ですよ。
免罪符やインチキの種あかし、言葉遊びの域を超えることはないでしょう。
エリートとは篩いにかけられた選ばれ者でしょうか?頭脳明晰とばかりではないようですよ。
その篩いとは「試験」だったりします。試験のテクニックや問題点も指摘はされていました。
ん、じゃ、どうやってエリートを生んで育てるのか?
エリートにも二八の法則があります。
エリートを真とかでより分けても無意味であり、
エリートがその職分を真っ当できる場こそが必要なだけです。
また、社会が有能な人材を必要とする環境こそが必要です。
需給のバランスといえるでしょう。
けれども、社会や組織は本気でそのような人材を欲していないのでしょう。
まだ、ケツに火がついていないわけですね。だから本気で人材を確保しようとしません。
東大とか有名大学出身者をエリートと考え、就職試験や面接で確認するだけです。
ひと昔前の就職面接はユニークだったようです。
『本の雑誌血風録』に登場する双葉社の本多さんは面接のときに散々な扱いを受け
「こんな会社だれが入るか馬鹿野郎!」と啖呵を切って席を立ったそうです。
結果は合格。本多さんは入社しちゃたんですね。
これが「がんばれタブチ君」や「クレヨンしんちゃん」の大ヒットを生む凄腕編集者の誕生の瞬間。
ある就職本の担当者に聞くと、このようなエピソードは当時多かったそうです。
会社側が気骨のある人間を望んでいたようです。気骨は明治だけのものではありません。
エリートの話でした。
バブル崩壊後に就職氷河期が到来します。その中で超狭き門の優良企業に入社
できた社員は(それ故に)このエリート意識が超強いそうです。
彼らは決して冒険とかリスクを選択しないそうです。気骨がないようです。
(バルブ時代入社組が使い物にならない話はよく聞きますが、意外でした)
せっかく苦労して入ったのに危ない橋を渡る馬鹿がいるなのでしょうか?
もしかするとエリートが社会を牽引しているのではないのかも。
明治の頃も東大出身のエリート官僚のダメさかげんは同じです。
あれらが満州国とか領土政策の利権に奔った顛末は杉山伝でいずれ紹介します。
ダメな者は徳川時代でも明治、大正、昭和でも同じなのです。エリートも同じ。
日露戦争を考えなしに煽ったのが東大七学者という方々でポーツマス条約を批判して起こった
日比谷焼き討ち事件のきっかけもこの七学者でその手先がマスコミです。
彼らもエリートであり、薩長に対しての第三の学閥組織だったのです。
森鴎外もエリート中のエリートで東大医学部という金看板を背負っていましたし、
ドイツというアカデミズムの権化だったのです。
此奴が「脚気」論争で何万人の日本人を殺したと思います。
彼らはエリートではなかったのか?それとも真という冠が付かないだけなのか?
根本が違っている。
藤原さんは途方もないド忘れをしているかアルツハイマーの初期症状です。
その冠に「真」とつけてもダメなものはダメ。
ということで、エリートとかの問題では無いという話です。爺わかったか一昨日きやがれ!