あかんたれブルース

継続はチカラかな

モンローの白いドレスと赤い血の重さ

イメージ 1

 ヘップバーンと双璧をなす20世紀を代表した女優といばマリリン・モンロー
 対照的に彼女はセックスシンボルとして大スターの座を獲得しました。
 けれども二人は生い立ちや国籍やその世間的イメージは異なりますが
 ヘップバーンはユダヤ人として、モンローは大恐慌の煽りを受けた貧民の子として
 暗い青春を送ってきた共通点があります。

 昨夜、細木先生の番組でジャガー横田のエピソードには泣けました。
 できれば旦那の心変わりや浮気などなく、幸せになってほしいです。

 モンローはセックスを商品にされた女優です。
 それ以前にもジーン・ハローだとかセックスシンボルとされた女優は沢山いました。
 それらの女性は知性は邪魔というか少々足りないほう大衆受けするとされたようです。
 これにはアメリカの社会の変容と関係がありそうです。

 『駅馬車』という西部劇の古典中の傑作にリンダ・ダーネル演じる「ダラス」という
 女性が登場します。彼女は娼婦で不貞の女として街を追放、駅馬車の乗客となる設定。
 対照的に淑女、、、名前を忘れた。も同乗者、彼女は騎兵隊の夫の子を身籠もっている。
 通常、日本の時代劇などでダラスのような女は最後は風車の弥七をかばって死ぬのが定番。
 でもこの1932年あたりのアメリカでは違う。最後は主人公と結ばれる。
 なぜか?

 この当時のアメリカ社会の男性のいい女の定義に
 「グッドバッドガール」という神話が存在しました。
 性悪のようだけれど、根は身持ちがよくて、芯の強い、女。
 たとえ娼婦でも関係なかったのです。身持ちのよさは別次元というところが泣かせる。
 けれども、40年代50年代からのアメリカの社会の変容はそれを許容できなくなったようです。
 古き良きアメリカのひとつのノスタルジックなのかもしれませんね。

 モンローの『バス停留所』が好きでした。
 ちょっと足りない役どころでしたが、私にとてモンローはセックスシンボルではなかったなあ。
 題名は忘れましたが、アインシュタインとモンローの在る夜の出来事を題材にした
 映画がありました。作品自体は駄作で大したものではありませんでしたが
 その中で、白いドレスを着たモンロー(別な女優が演じてるのですが)が流産して
 そのドレスを血で汚す場面は痛々しいものがありました。

 また、『砂の器で』加藤剛の恋人役の島田陽子が同じように流産するシーンも
 白いスカートではなかったでしょうか。(作り手は意地悪です)

 セックスは商品になりえます。
 モンローは貧困からはい上がるためにそれを利用し演じたようです。
 また、世の中が求めるそのイメージは時代の変容にあわせて品を変えるようです。

 愛とセックスはイコールではないという与太話の凡例のひとつでした。