愛の十字路(28)
というわけで、週末を利用して、先を急ぎます。
昨日の投書から。
>愛には いろんな形があって、それぞれに優劣など無いということです。
>愛情も友情も親子愛も 全部 素敵なものであるはずです。
幸せ実感は個人的なもので、「目黒のさんま」です。
対比させるものがなければ、優劣も存在しません。
けれども人は「比較」させたいものです、
それは、第三者ではなく、当事者自身が。そして、安心と満足を求めようとします。
素敵で「あるはず」なのですが、懐疑が伴うようです。
それと、漢字の組合せは日本人のいい加減な所業のようです。
本来外来語である漢字を日本人は独自の表記体系にアレンジさせててきました。
だから、同じ漢字でも中国人にまったく意味不明な組合せの漢字が存在します。
そこに、別な外来来語「LOVE」が渡来してきました。
さあ、大変。そんな言葉ないぞ。意味は「仁」かな。じゃあ「愛」でいいや。
言葉としての「愛」の誕生です。
最初から、日本人にとって、「愛」は曖昧で意味不明で漠然としたものでした。
それに、「情」を加えて「愛情」とするのは洒落と同じ。
ましてや「親子」と「愛」で「親子愛」もそのときの都合であって、
「人間愛」「愛国」「人類愛」などは当て字です。「笑点」の大喜利ネタだな。
「愛地球博」って感じでコピーライターの独壇場です。日本人は駄洒落が好きです。
なんとなく意味があればいいじゃないか。言葉は時代と共に変化していくんだから。
まあ、その通りなんですけど、
私が言いたいのは「愛」って言葉に黄門様の印籠
のような権威と大義名分が生まれて、一人歩きしてしまっている。
誰か本質を理解している人いるの?
って、不安になる時があります。ありませんか?
>人が誰かを好きになったとき、その気持ちに貴賎や優劣など あるものでしょうか。
あるんでしょうね。
人間が平等ではないように、愛にも貴賎と優劣があります。
いや、本当は愛なんて、そんなに簡単には転がってないんですよ。
ほとんどが、気のせい。勘違いとか。
失われた愛なんかじゃない。最初からなかったのか。なるほど、寂し〜い。
なんでもかんでも簡単に「愛」ってしてしまうので貴賎と優劣が生まれるのかも。
そう考えると、幼児虐待などの事件も少し気が楽になります。
そこに、愛などなかったと。
はたして、この解釈がいいのかどうか?
いずれにしても、すべてを愛にして、素敵であるとは賛成できません。
いずれにしても
愛の存在の有無か、貴賎や優劣の認知か の、いずれかではないでしょうか。