愛の十字路(30)
さて、愛十字路と題して、30本。
少し、暴走機関車馬太郎号だったでしょうかね(汗)。
ここらで、結論を、と思ったですが、やめた。(おいおい)
別に急ぐ必要もありません。みなさんと納得したいのが目的です。
説得したいわけでも洗脳したいわけでもないよ。咀嚼していきましょう。
それでも今回で第一章の区切りとさせてください。
次回からは第二章のブリッジとして、もっと違ったアプローチを考えてみます。
愛の形は人それぞれ。誰も指図なんかできやしません。
三位一体か三権分立かなんていうのも本質からすれば意味無いのかも。
愛と性を切り離すことに無理があり、一緒にしようというのもむしがいいのです。
そして、男と女は違う。
ましてや、心と体も決して同じ波動曲線を描きません。
異質なものが重なり合って織りなす「えにし」に「愛」が綴られていく。
その一瞬を捉えて、愛の是非をつかもうしても残像でしかない。
私たち自身が「愛」を把握しきれていないのですから。
それでも、複雑な自分自身が、
異質な者と共に愛を育んでいくところに存在しえる
この世で味わえる最高の幸せ
身も心も
私たちのホルモン作用とか神経機能とかは、すべては、「欲」にあります。
かといって、キリスト教の原罪のように考える必要はありません。
西洋は人間が自然から分離して、自然と対峙して、克服させ、征服すること考える。
東洋は「天人合一」で、自然と共に在ることを考えてました。
この極東の島国にある私たちは歴史的な環境から、いま混乱があるようです。
本質を解すせぬまま咀嚼しようとするから矛盾が生じ疲弊してしまう。
欲を恐れることはありません。その時点で矛盾が生じてしまう。
欲には必ず「情」があるのです。情欲、欲情。(言葉尻で判断してはダメですよ)
『呂氏春秋』では最後にこうトドメをさします。
「情に節あり」
これだ。
なんか、今日のタイトル妙に決まったな(汗)。
それでは皆様ご機嫌よう!