あかんたれブルース

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闇夜の懐中電灯として

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愛の十字路 第二章(8) 国語


 さて、いよいよ佳境に迫ってきました。本丸大手門の攻略開始です。

 その前に、このブログで、私が伝えたかった事をひとつだけ紹介させてください。

 「中庸」という言葉があります。


 人間は白黒をつけたいものです。

 曖昧な社会環境である現在、それは当然だなことだと考えますよね。

 是々非々。何が正義で何が悪か? 真実は? 真理は右か左か?

 考えれば考えるほど原則論と現実論の間で悩んでしまうことも多い。

 そこで、その動機のひとつに「不安」というものがあることを考えてみてください。

 私たちは、その不安を取り除くために白黒をはっきりさせることを好み求めます。

 ここに極論の危険性がある。

 私が振り子の論理に危惧するのはこのためです。

 じゃあどうすんのよ! という声

 私思うに、「中庸」だと考えます。

 この言葉を聞いて、なあんだ曖昧じゃないか。と思われる方々も多いと思う。

 でもね、その理由に「凡庸」という言葉との連想と類似認識はないですか。

 以前、日本人は漢字の本来の意味を無視して、勝手に言葉を製造した。と書きました。

 それでいうと「凡庸」という言葉は存在しません。

 「凡」という字に「庸」という字は組み合わせることは出来ない。

 漢字にはそういうルールがあります。私の持論ではなく本で学びました。

 まったく意味のことなるもの同士なので「むじゅん」と訳してもいいでしょうけれどね。

 それでも、凡庸という言葉は浸透してしまい、
 こういう時代環境もあって「中庸」の意味が誤解されているいるのではないでしょうかね。

 物事には必ず二面性がある。

 どんなに素晴らしい方法論でも必ず弊害があるものです。長所と短所は表裏一体。

 何事も「過ぎてしまう」と弊害を生んでしまう。

 そこに人間の叡智や見識が必要とされる古人は考えました。それが中庸です。
 知識だけだと雑学にしかなりません。

 池波正太郎が言った「いい加減」ですね。(これも誤解させそうな言葉ですが)
 いい塩梅、ほどほど などなど これは自分でやらないといけない。
 マニュアルは存在しないのです。

 先日、アップさせた「欲」の肯定にも「情」が伴うとして、
 最終的に「節」があると紹介しました。私はそれが中庸というものだと考えます。

 老荘思想などにも諸刃の剣であり、どんな思想にも危険性を孕んでいるものです。

 結局、幸せというもは個人的なものであり、人間の私欲とは執拗で、
 習慣は理論などおよびもつかない力をもっているといいます。

 納得する。選択する。はあくまでも自分自身。


 これからアップする記事の内容には、
 極論的な話から展開させる場合もあるかもしれません。

 どうか、その場合でもベースには中庸というものが存在していることを
 認めてやってください。多分、それがすべての篝火となるはずです。
 


ビジュアルはひろさん。
ひろさんのブログ「健康日誌」
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