あかんたれブルース

継続はチカラかな

良識派の疲弊

愛の十字路 第二章(番外-1)


 音夢嬢から「良識」という言葉が提示されたので借用させてただきます。
 「良識ある大人」 良識派というものです。

 今、いや、それ以前から「良識派」は社会で駆逐され、疲弊し、利用されてきました。

 良識というものが必ずしも生きる上での道しるべにならないことを知り、
 愕然となったなったものです。

 この傾向が戦後、飛躍的に拡大するのは
 高度成長からオイルショックバブル経済からその破綻というふたつの環境からです。
 好景気から大不況への転落。豊かさを感じたあとの低迷。不景気という環境。

 もうひとつ。日本人の民度の向上というものがあると私は考えています。
 先進国の仲間入りをはたそうとする中国ではその急激な経済成長に
 この民度がついてこれない状況をニュースで宣伝していますね。
 
 けれども、私たち日本人も100年前ならば現在の中国と変わらないと言って過言ではない。

 民度は豊かさに裏付けられて生活や教育・文化などの環境から育まれます。

 知的レベルというのでしょうか。知性といっていいのか、言葉を探しあぐねる。。。

 その特性として、ものを分けて考える働きがある。

 「もの分かりがいい」とはここからきているそうです。

 幼い子供は分別がありませんが、
 成長につれ「自分」「他人」と「もの分かり」がよくなってきます。

 悪いことではありませんが、ここに罠がある。
 「過ぎる」事の弊害と「中庸」の話を思い出してください。

 ものをあまりにも分け過ぎていくと末梢化して行き詰まってしまいます。

 本来の問題の本質は木でいえば「幹」にあるのですが、枝葉に注がれてしまう。
 そこで、ひとまず原点の幹に戻ればいいのですが、それを見失ってしまう。

 そして、もの分かりの良い怖さは分け過ぎて「分かり過ぎ」てしまうことです。

 ここに閉塞感が生まれる。

 私が指摘する良識派の疲弊はここにあり、
 身動きのとれない彼らを利用する少数派が存在していることです。

 なぜ、分かり過ぎるといけないのか?
 選択の際に双方にリスクが伴うからです。

 リスクの回避。ここに集約される。
 金銭や出世だけではありません。人間関係や愛情も、すべてにおいてです。
 それが「しがらみ」となって問題の先送りをしてしまう。
 それが「処世」であり、「大人の生き方」である。そう努力して我慢します。
 健全な体と心はこうして疲弊していくのでしょうね。

 リスクを回避する考えは間違いではない。じゃなかったらバカです。
 けれども、回避ばかりに主眼をおくと身動きがとれなくなる。これが閉塞です。

 また、もっと忌むべきことは、リスク回避を確認して、
 つまり安全地帯にいると認識して他人を攻撃することです。
 これがイジメの構造。

 本来、喧嘩や格闘にはリスクが伴います。
 どんなに力量差があっても相手が必死なら何があるかわからない。力道三がそうでしょ。
 たとえ、ピストルを使っても法治国家ですから刑罰が待っていますしね。

 イジメの問題には色々なメカニズムはあるでしょう。それはここでは触れません。
 ひとつだけ「リスク」という観点からいうなら、

 やる側は絶対相手が刃向かわない。と確信しているのです。
 その行為はそれを確認してから行動となります。
 また、やられる側にも問題があると指摘されるのは、
 それをはねつける姿勢が分別によって妨げられて疲弊していきます。
 やる側の確信はさらに増大して悪循環を生むのではないでしょうか。

 子供たちにも分別が浸透してきている。これも民度向上という皮肉な現象でしょうか。
 それ自体が悪いのではなく、中庸という自分で本質を考える力の脆弱化であり、
 それを妨げているのがリスクの壁です。
 -6と-8を比べて-6を選ぶ悲しい知性。
 決して、マイナスを消し去ることはできない。
 なぜなら、そのために未確認の新たなリスクを選択しなければならない。

 良識派はこうやって疲弊していきました。