あかんたれブルース

継続はチカラかな

自己中心主義が「徳」に輝くとき

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愛の十字路 第二章(番外-6)金子文子の場合


 その日文子は、労働者が集う「社会主義おでん」の店で一人の男に心を奪われた。

 男は、ボロボロの青い職工服にオーバーを羽織り、静かに焼酎を飲んでいる。
 文子には寡黙なその背中からは異様なオーラが周囲を圧倒しているように感じられた。

 「あの人は誰ですか?」

 「ああ、あれは朴烈ですよ」

 その名前を告げられた時、文子の心はさらなる衝撃にめまいを覚えた。

 ある雑誌で朴烈という人物の詩を読み、全身を感動が震わせるた。
 そして、その名を強く胸に刻んだ。それが目前にいる「朴烈」だ。


 金子文子は可哀想なひとです。

 両親は内縁関係にあり、文子は母の妹として出生届はだされました。
 後に、この実父が母の妹と結婚することから、父親は義兄ということになります。
 愛情というものと縁遠い生い立ちだったようです。
 9歳の頃、父方の祖母に連れられて朝鮮に渡ります。
 孫娘ではなく女中として九年間を過ごし、日本に返されます。

 何も面白くない人生。 私は何?

 文子は東京を目指しました。社会の底辺で生きる糧を稼ぐ最低限の生活。

 それでも自分を確認したかったのでしょう。
 英語と数学の学校に通い、こうして社会主義者の群に身を置いてみたりします。

 
 そして、文子はいま目前の朴烈を見つめています。

 私の探していたもの、私のやりたかった仕事。それが、朴烈の中にある。

 信じられない勇気が文子の宿ります。
 文子は自分から朴烈に話しかけ、やがて求婚を申し込む。

 「私は日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に反感など持っていないつもりですが、
  それでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」

 「いや、僕が反感を持っているのは日本の権力階級です。一般市民ではありません」

 「私はあなたの内に私の求めているものを見出しているのです。
  あなたと一緒に仕事ができたらと思います」

 「僕はつまらないものです。ただ、死にきれずに生きているようなものです」


 二人は結ばれました。

 文子にとって朴烈は知的であり、頼もしく、可哀想でした。

 可哀想な男と可哀想な女が寄り添って生きて往きます。

 二人の共同の仕事
 朝鮮独立の結社団体「不逞社」を起こして、雑誌「太い朝鮮」の発行。


 大正12年9月1日 関東大震災

 多くの朝鮮人がデマによって殺害されました。
 権力者はこれに乗じて社会主義者・反体制主義者の殺害と一斉検挙を行います。

 その逮捕者のなかに金子文子と朴烈もいました。

 死刑の判決。 皇太子への爆弾テロをでっち上げられてのもです。

 その時の文子の言葉

 「・・・私はいずれは爆弾を投じて自己の最後を遂ぐる意志でありましてけれど、
 
  結果日本に革命が起きようと起きまいと、少しも私の知ったところではない。

  私は自分の気持ちさえ満たされればそれで満足しているのです。

  形を代えた新しい権力社会を建設する手伝いなどをしたくはありません」


 19歳の娘が、、、。
 何が彼女をこう言わせるのか。
 死刑判決を受けても文子は堂々としていたそうです。
 
 判決から十日後、恩赦によって無期懲役減刑されますが、
 文子は同年の七月に看守の目を盗み首を吊って死んでしまいます。
 それは鮮やかにという不謹慎な表現を用いてしまうほどの早業せした。

 金子文子が獄中で書いた『何が私をこうさせたか』
 作家の森まゆみ
 「内省的で、独自に深く考えていることに心をうたれる。
  身近らの欲求を行動の大義名分とした、
  この時代に、これほど自己中心主義は一つの徳とすら思える」
 と感想を述べています。私も同感です。

 文子が愛した朴烈は戦後まで生きて、故国朝鮮で政治家として活躍したそうです。