愛の十字路 第二章(23)
「 林、桜花はだめだよ。
おれはもともと特攻など好きじゃない。
おれでなければ隊長がつとまらないというから、迷惑千万だったが、うけたまでだ。
桜花攻撃には、陸攻隊の精鋭をつれてゆく。昼間強襲をかければ敵に食われるにきまっている。
おれはひと泡ふかせてから部下もろともに全滅する。全滅して捨石になる。
林、あとはなんとか桜花の使用をやめさせてくれ 」
「 桜花を投下したら、母機はすみやかに帰れとかんたんにいうが、
指揮官としていままで起居をともにしてきた部下が、眼前で敵に体当たりするのを見ずに、
おめおめ帰れるものではない。
列機は、帰すにしても、指揮官機は、自ら体当たりを覚悟すべきだろう。
だが、このような成算の少ない作戦をやるくらいなら、
われわれががいままでどうり、夜間雷撃をやるほうが戦果があがる 」
この発言者は第七二一海軍航空隊(雷神部隊)野中五郎少佐。
文中にある林とは桜花隊の指揮官・林富士夫中尉に語ったものです。
多くの現場指揮官たちは特攻攻撃には反対だったようです。
「桜花」とは、昭和十九年に開発された小型航空特攻兵器で、翌年から実践使用させました。
所謂「有人誘導ミサイル」で、陸攻機の胴体に据え付けられた「人間爆弾」です。
九州沖航空戦から沖縄戦にかけて使用されましたが、
結果はその犠牲に比べて見合った戦果はありませんでした。
発案当時から海軍の設計担当者たちは「技術者としてこんなものは承服できない」と
強く反対していたそうです。
これを許可したのは軍令部で源田実中佐は積極的に動いたようです。
「桜花」特攻のために編成された第七二一海軍航空部隊(神雷部隊)の
司令官・岡村基春大佐でさえも「護衛機不足により成算なし」と反対しましたが、
それを「断固出撃すべし」と命令したのが第五航空艦隊司令長官に就任していた宇垣纒中将でした。
野中隊長は岡山出身で海軍兵学校六十一期生。
普段からベランメイ言葉で部下思いの彼とその部下は「野中一家」という
侠客の疑似親子関係を結んでいたそうです。
それが故に、彼は「桜花」という特攻作戦を納得できなかったのでしょう。
その日、昭和二〇年三月二十一日。
鹿屋基地から飛び立った野中少佐率いる「神雷部隊」は、
一切の無電を発せず上層部に対して無言の抗議を行います。
そして、敵艦隊のレーダーに察知され、F6F戦闘機二十八機に遊撃され、
敵艦隊遙か手前で陸攻隊は十八機すべてが散ってしまいました。
その所要時間わずか二〇分。
「湊川だよ」
出撃前に野中少佐はこう漏らします。湊川とは楠木正成の討ち死にの地名です。