あかんたれブルース

継続はチカラかな

宮城谷昌光の愛と頭の善し悪し

 頭の善し悪しの話です。

 それは当然いまの学校の成績ではないし、学歴の裏付けでもない。

 その点を私の心の師である宮城谷昌光はこう断言しました。

 「頭がよいということは観察力が勝れていることをいう」

 流石は師匠だ(涙)。

 どうしても記憶力偏重ですからねえ。
 そうはいっても中国の科挙なんてやっぱり記憶力が勝負じゃないか。
 と仰る方々もいるでしょう。
 だから役人はダメなのさ。と馬思う。

 私は別に記憶力を否定しようって魂胆じゃありませんよ。

 本当の頭の良さは観察力であると。


 この言葉には含蓄がある。

 その観察力の延長線には人間としての機微があり、感性があります。

 そして、そこには情けという思いやりもある。そこの愛はある。

 なぜ、そう言い切れるかというと、宮城谷昌光が愛の作家だから。

 彼の作品には愛が満ち溢れています。
 
 私たちはどこかで愛を求める反面、
 それを社会性の対極に置き、無力で、邪魔なものだという声に怯えている。
 それは大きな間違いです。

 よく、非情であれと言われますが、それは順番の問題であって、
 最初から情を蔑ろにしろと言っているわけではありません。
 ここを履き違えてしまうと大変。

 泣いて馬謖を斬る。という諺もありますが、どこかで泣くのはつらいから
 それを棚上げして斬ってしまおうという合理精神もあるんでしょうかね。

 有能と頭の良さは同意語のようですが、ハードとソフトの関係で
 捉え方によって中身はまったく違ってきます。

 いくら有能でも失敗した凡例はたくさんあるわけですから。

 その逆に、私は「観察力の勝れた者の失敗」を歴史から探し出すことができない。

 「愛」という言葉は抽象的で掴み所がありませんが、
 その本質は非常に強く力を有するものです。

 さらに言うならば、知性とは本質を見抜く力だ。