コミュニケーション能力(9)学力と「志」
私は「学力」もしくは基礎学力というのが何を指しているのかは分からない。
ひと頃、IQ(知能指数)に対して、EQ(心の知性)というのが流行りましたが、
問題は社会がそれを評価しない限り価値は見いだせないってことです。
どんなに素晴らしい提案があったしても、内心「そうはいってもね」と、
自分だけは自分の子供だけは、貧乏くじは引きたくない。というのが本音。
問題の根が深くて広くて大き過ぎるのでひとつひとつツブしていきます。
結局、試験に合格すれば良い学力なんて意味ない。これが正論。
でも、みんな良い学校に行って良い会社に入ることが
安定した収入と地位を得て幸せになることだと考える。わけだ
でもね、ビジネスマナーの問題が具体化してきて、
それ以前の引きこもりや心の病気、そして自殺者年間1万3000人の実態を考えると、
そんな流暢なムシの良いことは言えないんじゃないだろうか。
たとえば、私がその解決案として「志」と効用を説くとしても、
そんな漠然とした遠大なものは敬遠されてしまうのが常です。
私たちはその目的を具体的で分かり易いものの方が現実的であり効率的だと考える。
従って、「志」とか「夢」や「希望」にもそれが働き、
身近なものにしてしまう。それは実際に達成可能なものでしょう。
で、どうなるかというと、達成してしまった後に、目的と自分自身を見失うことになります。
よい学校よい会社がこれにあたり、
あるものはそこから出るか、でなければ趣味に奔ってしまうと言われます。
どちらにしろ、志とかは高くおいたほうがいいようです。
中島みゆきは地上の星として天からの俯瞰図でそれを歌いましたが、
私たちが天を仰いで自分自身の昴を見いだしたとします。
その星に矢を放つとして決してあたるものではない。
それでも、私たちはその矢を出来るだけその星に近づけようと、高くして
できるだけ遠くに放とうとする。
その星の瞬きに導かれて私たちは旅をします。人生は旅だ。
放たれた矢を再び拾うと、またより高く放つ。
その行為を嗤う者もいることでしょう。しかし、
人生とは、そういうものではないかと思います。
そう、思うと、なぜか楽しくもあり心も軽やかになるのは気のせいかしらん?