情動の知性(4)共感能力(其の一)
この「共感」というものを私なりに解釈してみると、
「情緒」とか「情操」とか、「感受性」もしくは、「想像力」ではないかと。
その意味で、藤原さんが『国家の品格』で「情緒」の重要性と説いたのは正しい。
この「共感能力」が著しく低下しているのが現代社会の大きな問題なのでしょう。
いや、むしろ、どこかで、それを否定することを示唆させてきたかもしれません。
現実社会でいえば、シビアで非情なことが知的であり正しい。世の中は厳しいのだ。という考えは、
バブル崩壊後の日本に大きく蔓延したかと思います。
同時にグローバルスタンダードやマニュアルなどの徒花も影響したかも。
その辺りは「コミュニケーション能力」で語るとして、
私が考える共感能力。つまり想像力とは、
空想とか妄想とかイメージではなく、相手に対する「思いやり」に的を絞っています。
こういった厳しい社会環境のなかで、
相手に対する思いやりなど甘いという大人たちもいたかもしれません。
弱肉強食なのだと。食うか食われるか、だと。
数字と結果が大切なのだと。
ストイックなビジネス理論はどこかで「共感能力」の必要性を認めない。
その結果が現在の日本の閉塞感の素になっているのは御存知の通りです。
ここで肝心なのは人間の本来の資質、特性ではないかと思います。
性善説と性悪説の是々非々をここでやっても仕方がないのですが、
本来人間には良いこと正しいことをやることに気持ちのいい快感を得るものです。
自分以外のもの。つまり、他人であり社会です。
先を読んで、それを自己満足に結びつけるのは早計ですよ。
個人主義というものがどうも誤って解釈されてきた結果だとも思いますが、
社会や他人は自分を映す鏡です。
その存在なくして自分は見いだせないものです。
自分のことが一番見えづらいもの。
私たちは他人や社会を通して自分自身を見いだすことができます。
したがって、他人や社会の拒絶は自ずと自分自身の拒絶につながる。
老荘思想の難しさはここにあります。
前説が長くなってしまいした。
「共感能力」の具体的な考察は稿を改めます。