あかんたれブルース

継続はチカラかな

議論するなかの勝ち負け意識

情動の知性(5)コミュニケーション能力(其の二)



 議論という言葉をよく聞きます。

 だいたい、若い政治家の言葉として「よく議論して」とか「尽くして」とか。

 しかし、民放で開帳される彼らの議論とやらは相手の意見を遮って、
 とにかく自分の主張を声高に連呼するだけです。

 テレビというメディアがそうさせるのでしょうか。
 NHKの討論会ではさほどのこともないので、そこに民放の演出もあるのでしょう。

 しかし、まるで相手の意見を聞いてしまった段階で「負け」みたいな感じですね。

 コミュニケーションのなかに勝ち負けの要素が付随している。

 いや付随なんてそんな生易しいものではありません。これがすべての目的か。
 「ディベート」というものがいつ頃から私たちの国に浸透したんでしょうか。
 たぶん、例のグローバルスタンダードとセットでしたかね。

 それ以前に弁論大会や青年の主張はありましたが、
 個人が大多数に向けるそれと、個人対個人のこれは酔った酒の席とか
 限られた場で展開されて刃傷沙汰につながる風土だったように思います。

 知り合いで私より一歳上の男がこの議論好きで顰蹙をかっていました。
 上司からそれとなく注意を促されているのですが治らない。
 同僚部下だけではなく仕事先の関係者やクライアントにまでそれはおよぶ。
 こう書くと不器用な好漢に聞こえるでしょうが、
 実態は目を覆う。とてもその場に同席したくない有様。
 それでもなんとかやっていけるのはその会社の余力と過去の信用という財産ですかね。

 議論は確かに重要ですが、そこに勝ち負けを優先させると危険です。

 そのことを彼はきっと理解している。

 それで治らないのは彼自身に自信が持てていないというのが原因です。

 彼は自分の理念を必死に守ろうとしている。
 それは危うさに満ちて、矛盾もあるのでしょう。
 ひとたび他人の意見を受け容れてしまうとなし崩しに瓦解してしまうのではないかという
 強迫観念さえあるようです。

 そのことに耳を傾けているまでの私には彼は至って素直でしたが、
 私が私なりに私の意見を述べると彼は離れていきました。
 私は追いません。

 男性は理論的な特性があるので、悩み事とかを告白させると
 ついつい解決の糸口を導き出そうとします。
 下手をすると相手の言い分を聞き終わらないうちに対応策を口走ってしまうかもしれません。

 その時に、女性は毅然とこう言います。

   そんなことはどうでもいい。分かっている。
   私はただ私の話を聞いてくれればいいんだ、と。

 これを習得するのには苦労しました。それでもまだ不十分かもしれない。


 あの議論好きな彼に対しても、もっと聞き足らなかったかもしれませんね。
 でも、本当はどうでもいいんです。私がそこまで彼に興味が無かっただけ。

 メス化していると言われる現代の「男性」。
 聞いて欲しいけれど聞きはしない。それも偏ってしまっています。
 そして目先の勝ち負けだけにこだわってしまう。
 そこから本質は見いだすことはなく、発展も生まれない。

 そういう環境でコミュニケーション能力の重要性を認めたとしても、
 だからと言って、
 私たちが八方美人や博愛主義者になる必要はないのです。