あかんたれブルース

継続はチカラかな

幸運の女神はお笑い好き

情動の知性(5)コミュニケーション能力(番外)

 

 少し話がそれるかもしれません。

 知識と経験。

 知識は必要です。

 けれどもその知識を上積みさせても他の知識との互換性というか
 知識と知識が結ばれるネットワークがないと意味をなさない。

 たとえば、マニアックな近現代史のオタク様の世界では、
 日露戦争のこと旅順攻略の砲弾の数だけに特化した方がいます。
 その知識は専門家も裸足で逃げるほど。
 けれどもせの前後のこと、また経済や国際情勢などはまったく無関心。

 これじゃあねえ。

 浅くて上っ面っていうのも困りますが一点集中の井戸掘り人夫っていうのも
 それで時代を語ろうとすると何とか刃物になってしまう。

 
 その意味で、経験というものは自分が実際に体験したうえでの積み重ねですから、
 意義深いものかもしれません。が、

 その経験っていうものも個人的な色合いが強いので
 その咀嚼にも個人差が出てしまいます。受け取る解釈もそこで様々。
 変にそこで変な自信がつくと厄介なことにもなるものです。

 たとえば、不幸とか不運とか逆境とか苦労というもの。

 これを乗り越えて来た人はその風雪のなかで磨かれた輝きと強さがある。

 けれども、どこかで私たちはその苦労が成功のパスポートだったと
 後知恵として思い浮かべるかもしれません。

 苦労をいくら積んでも成功や幸せにはつながりはしません。これが真実。

 むしろ、苦労に慣れてしまうことが人をくすませてしまうものです。

 また、その苦労が人を歪ませてしまう場合もある。
 その人がその後にどんなに栄達をはたしても、この歪みはなかなか直らない。
 とても不幸で可哀想なことです。

 苦労を糧にするにはそれなりのプロセスが必要なのかもしれませんね。


 それを「笑い」だという人がいる。

 どんな苦しいときも笑いを忘れない。

 それは先日指摘した作り笑いや偽りの仮面では決してありませんよ。

 芝居がかった生き方っていうのはどこか無理があって、必ず破綻する。

 そういう笑いではなく、自分だけでなく周囲にも笑いをもたらすような
 そんな人が幸せというものつかめるのだと、その人はいいます。

 経験という言葉のなかに、
 苦労というニュアンスがまるで同意語のようにあるとしたら、
 そこに「笑い」という要素を探してみてはどうでしょう。