愛の眼差し(2)
赤鬼と青鬼の話を想いだして、徒然に、、、。
いったいこの話どこの翁がどういう了見で生みだしたのかと、馬想う。
もしかすると、、、。
司馬遷の『史記』、晋の文公。そして、介子推。じゃないだろうか?
昔の日本人は教養が高かったですからね。
四書五経のほかに、「史記」や「戦国策」、「十八史略」など楽しく読んでいたようです。
晋の文公とは重耳のことです。
宮城谷昌光は彼を主人公にした『重耳』によって作家としての位置を確立しました。
晋の君子の第二子だった重耳はお家騒動に巻き込まれて、放浪の旅に出る。
その歳月は19年。彼が帰国して文公となるのは60歳になってからでした。
その彼に従った忠臣のなかに、介子推はいました。
苦難の旅をおえて、その栄光の興奮さめやらぬなか、介子推は姿を消します。
彼以外の忠臣たちが恩賞をいただくなかで、介子推は忘れられてしまった。
それを知った重耳は狼狽して、介子推を探します。
しかし見つからない。
彼の故郷の山に行き、自分の非を叫ぶのですが、介子推は二度と現れることはなかった。
こんな話です。
宮城谷はその『重耳』のなかで、介子推を棒術の達人として、
目に見えぬ場面で重耳の危機を助ける忠臣に描いていました。
宮城谷は介子推が好きだったんですね。
単に恩賞からもれて不平を抱いた者として介子推を誤解されたくなかった。
そして、『重耳』の後に『介子推』という作品を書くほどでした。
介子推の行方に心を痛めたのは宮城谷ばかりではありません。
『史記』の司馬遷も『十八史略』の編纂者も『列仙伝』の劉向も
それぞれに介子推の後ろ姿に心を痛めている。
それを知る読者も同様に介子推を哀れんできたのでしょう。
中国では彼の死を哀れみ、
清明節の前日に「寒食節」という火を使わず冷たい食事をとる風習が生まれたそうです。
そういう流れで、考えてみると、
「赤鬼青鬼」の話にはどこか「介子推」の匂いがします。
そうか、私は青鬼に憧れたのではなく、その想いに心を馳せて、
愛してしまったのかもしれませんね。
司馬遷や劉向や中国人や宮城谷昌光同様に。
愛は情から生まれます。その情けは悲しみで作られている。
慈愛よりも慈悲に愛の本質はある。
愛は「かなしい」とも読むのだそうです。