愛の眼差し(3)多分完結編
「赤鬼青鬼」の藪を突っついたら
トンでもない蛇、いや、愛の本質が浮かび上がってきました(汗)。
私の思い込みじゃないぞ!
ソースは宮城谷昌光と安岡正篤先生だ。
なんだ二番煎じかよ。と、言わないで(涙)。
愛とは仁のことです。
孔子は「仁が右なり、道は左なり」と言いましたが、
宮城谷はそれをこう置き換えた。
「仁は母なり、道は父なり」
しかし、これだけじゃ色気がないよね(汗)。
これだと、またそれぞれの愛とかいって迷宮に彷徨うことになるかも。
で、安岡先生の易経から
「 人間の感情の中で「かなしむ」という感情は一番本体的であります。
たとえば仏教では「菩薩道の究極は何か」といえば
悲だといわれます。(以前、ひろさちやの仏教与太話でも紹介しました・馬)
悲しむという感情に慈愛が加わりますと、慈悲であります。
そこで菩薩とは何ぞやということをひと言で申しますと慈悲であります。
さらにこれを縮めていうなら悲、そこでその至極のものが大非観音・悲母観音でありまして、
母の母たる至極の感情は、子供を悲しむことであります。
そこで愛という字を「かなし」と読むのであります。
愛は悲しい。
楽しい愛というのはまだ愛の究極ではなく、本当の愛は悲しい。
ですから愛の化身である母は常に悲しむものであります。
子供が病気をしたといって悲しむのはあたりまえですが、
子供が出世をしたときでも、母は「あんなことになってどんな苦労をするだろうか」
と悲しむ。
人が喜んでいる時に母は悲しむ。
これが本当の慈悲であります。
だから慈愛よりも慈悲のほうが深刻な言葉、本質的な言葉であります。 」
私の稚拙な表現だとまた誤解を生むので、安岡先生の言葉をそのまま抜粋しました。
愛の本質を探って1年半。ようやくここまでたどり着きました(涙)。
これを、伝えたかった。
昨夜、待ちきれなくて、妻に語ります。
「君、ここに座りなさい」
「なに?」
「いいからここに座りなさい」
そして私は朗々と上記の文章に節をつけて声に出して読むのです。
曲調は「大きな古時計」
愛は悲しい。と。そしたら妻が間髪を入れず、
「気苦労だね」
ガッチョ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ン!
愛は悲しい(涙)。