あかんたれブルース

継続はチカラかな

脱線したまま底抜けチキチキ

心と体(3)



 このグルジェフのおっちゃんはさらに人間を7つのカテゴリに分けました。

 まず、第一階層の3つ。ランクが設けられているようですね。

 (第一階層) 「運動」と「本能」 両センターが優勢な「肉体的人間」

        「感情」センターが優勢な「感情的人間」

        「知性」センターが優勢な「知性的人間」


 これが最下層でおおかたの人間がこれにあたるのでしょうね。

 このなかで、経験、思索、訓練を経て、自分の重心をコントロールできる人間が生まれる。

 どんなひと? 簡単にいうとですね

 「 自分がなんであるかを知るよりも、自分が何になりうるか 」
 
 つまりは、人間の発展の可能性に重心をおく人間。
 あれ? なんか最近アップした記事と同じ事云ってますね。
 http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/42277919.html と槇原敬之の歌。

 話が横道に逸れることを分かっていながら。。。

 私は近現代史が専門でこのブログも当初は「明治水滸伝」というものでした。
 思想とかで議論してもダメ。歴史人物の考察こそがヒントになる。これが私の信条です。

 その意味から、幕末明治の日本人の在り方は非常に興味深くヒントになります。

 これは明治というのが武士道的古い在り方と西洋渡来の合理主義のミックスジュース。
 という環境が日本人を飛躍的に覚醒させたと考える。わけだ。

 そのなかでの本質は何かというと「無私」と「単純」にトドメを刺します。

 この「無私」というのが以前から重要参考人と特定していたのですが、
 どうもストイックでうまく咀嚼できないでいまし。(自分で捻りだしたのは2年前)
 昨年の後半か今年の始めでしたかね。
 たまたまO〜MAさんブログで司馬さんのエッセイに「無私」があることを知り、
 大急ぎでアマゾンからそのエッセイ本を購入したんですが、まだ足りない。

 しかし、あれですよ。
 「引き寄せの法則」なんていうのも記事としてアップさせましたけど、
 何かを求めようとすると答えは自ずと引き寄せられるものなのですね。
 人を通して。引き寄せられていきます。ブログも然り。

 灯台もと暗しといいましょうか
 「単純無私」は杉山茂丸の『俗戦国策』のイントロに盛り込まれていた(汗)。
 私、すっ飛ばして読んでたんです。よくあるんです。B型のせいかしら

 この記事を書くにあたって、本棚の奥からひっぱり出してきな「カタカムナ文明」は
 今から25年前に購入したもので、前半の2割程度読んでほっぽらかしてたもの。

 特に、本をコレクションする趣味はないし、本棚ひとつのスペースを条件に
 時間と共に淘汰されていく本たちのなかで生き残ってきた強者ですね。
 しかし、よく捨てないで持っていたなあ。

 こういう人と縁とかモノ(本)との縁には運命とか必然とかを感じます。
 そういう断片的な記憶や知識が、なにかの拍子にスーッと線で結ばれる
 ダイナミズムは血圧を上げますよね(笑)。

 性の乱用(正しく使わない。の意味ね、決して別のニュアンスで捉えないで)は
 これまでの攻撃的論争合戦。また、自虐的な心のループ。
 また、イジメなどに深く関与していそうです。
 私は先週までは、それを「豊かさ」と「防腐剤」のせいだと考えていました(汗)。

 まあ、それもあるでしょうし、個人主義の役割も大きいでしょうね。

 それでも、「性の乱用」云々については考えもしなかったなあ。

 ということで、また長くなってしまいました。
 脱線したまま、一度席を立ちます。

 因みに、その上の3つのステージは仙人の類か神の領域なのでカット。
 紹介してもあまり意味がないでボツです。