あかんたれブルース

継続はチカラかな

見苦しくない武士の自決法

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この写真の青年。なかなかイケメンでしょ。

杉山茂丸の幼友達で来島恒喜です。といって杉山より五歳上ですけどね。

以前も書きましたが、明治の頃って、年齢差にあまりうるさくない。
今、タメグチを言った言わないで結構うるさいですが、
どうもそれは昭和の名残、戦争とかの影響じゃないでしょうかね。

児玉源太郎乃木希典だって3歳違うし、
杉山と後藤新平は7歳違う。「新平、新平」って呼んでいた。
児玉とは13歳違います。頭山とは9歳違う。

さて、この来島恒喜は杉山の父親に儒教などを教わっていました。
いわば同窓でもあるます。

久々の再会は東京での頭山との出会いでした。
来島は玄洋社の社員になっていた。


ちょうど、杉山が香港に行くようになった頃。
久々に故郷福岡に帰って、来島と世間話をしていたとき

「なあ、人間が自殺するには『のどぶえ』を刎ね切れば死ねるか」と聞かれる。

それに杉山は
「バカを言え、そんなことしたら見苦しい恥をかくぞ、
 武士が自殺するときは、
 頸動脈が耳より後ろにあるから、耳尻に深く短刀を突き込んで
 斜めに気管にかけて刎ねきれば見苦しくなく死ねるものだ」

とレクチャーします。

「そうか」と言って来島は頷いた。

実は、来島。時の外相・大隈重信暗殺を決意していたのです。

後でそのことを聞いた杉山は反対したそうですが、
来島は置き手紙を残して福岡を出ます。

その手紙を読んだ杉山は浜辺まで走って、
「お〜い! 来島、はやまるな」と叫ぶ。

来島は「行ってくるぞ! 後は頼むぞお!」


そして、明治22年10月18日。
玄洋社社員・来島恒喜(31歳)は大隈外相に爆弾を投げつけ、
杉山に教わった通りの方法で自決しました。

大隈重信はこのテロで片足をもぎ取られてしますのでした。


因みに、杉山はこの自決の作法を東京で山岡鉄舟に教わったようです。
そして、杉山を山岡に紹介したとは来島恒喜だったのです。




杉山茂丸伝(3)杉山の友だち●来島恒喜[きじまつねき]