あかんたれブルース

継続はチカラかな

言葉の食い合わせと誤解




ドラマやマンガの影響からでしょうか。
言葉本来の意味に偏ったニュアンスが植え付けられる場合もあります。

「ブライド」
多くの場合に「彼女はプライドが高すぎる」とか使われる場合が多くて、
マイナスに捉えられてしまっているようです。
ブライドは人間にとって必要不可欠なものです。

どんな物事にも表裏があり長短があって、行き過ぎてしまうとよくない。

池波正太郎さんがいったように「いい加減」がいいのでしょうが、
その「いい加減」も捉え方によっては問題もある。

そういうことを中国思想では「中庸」という言葉で説いている。
右にも左にも偏らないバランスのよい「中道」の生き方。
これが正しいスタンスなのだと。

けれども、建て前社会のなかでその矛盾からか、
それを曖昧なニュアンスと捉えてしまう傾向もあるのでしょう。

そこに「凡」という文字を重ねて「凡庸」と言葉を作った人がいる。
これは造語であって、「庸」という字に「凡」は決して重ねられない。
凡庸というものは存在しないのです。

たとえば、鰻の蒲焼き(庸)の上の梅干し(凡)をトッピングしたようなもので、
まあ食べられないことはないでしょうが、腹を下す。
健康ブームやダイエットとか流行なので食い合わせでもかまわないのかもしれませんが、
正しくはない。

同様に、「情け」や「同情」もあまりよく解釈されなくなってしまいました。

「同情なんてごめんよ」といった台詞を即連想してしまう。
もしくは「同情するなら金をくれ」という言葉が返ってきそうな気がして恐いとか。
相手を高みから見ているとも指摘されている。(これは精神医療からの指摘)

「情けは人のためにならず」という言葉を
情けが結果的に相手のためにならない。という解釈にも誤解があるいようです。

これは、「情けは人のなめならず」と「に」をとるのが正しく
その人のためというよりも、めぐりめぐって自分に返ってくるものと言う意味で、
情けというものの循環論を言い表しているようです。
かといって、それを期待してというのはまた誤りになってしまいますけどね。

人間にはそういった本能があります。

困っている人、可哀想な人を何とかしてあげたい。
それは人間の健全で上質な欲望なのです。
決して見返りを求めているのではない。

情けは人の為ならず。




言葉の力(6)