あかんたれブルース

継続はチカラかな

爺さんが語らなかった武勇伝

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正義の爺さんは腕の良い鰹漁師でした。薩摩の一本釣りね。

第一線を離れても目利きが利くので伊勢や千葉の館山などに
餌買いの交渉などに行っていました。

「爺さん何処に行だっ来たんな?」と訪ねると
「イセ」「エズ」とかの地名が返ってきましたが
後年それが「伊勢」「焼津」のことだと知りました。

お土産はだいたい伊勢だと「粟おこし」若しくは
鹿児島本線から南薩摩の発着点・伊集院駅の名物「伊集院饅頭」でした。

正義の爺さんが若かりし頃、南洋探検の冒険航海に参加したことを知ったのは
死後、数年たった高校の終わりぐらいでしたかね。
寡黙な人で、母親にもほとんどそのことを話していない。
惜しいことをした(汗)。

自分なり最近調べてみたんですね。

日本の漁船が動力するのは明治39年頃からです。
つまりそれまでは手動の風まかせだったってことですね。
また海難事故も多かった。

明治30年代の終わり頃に大島流れという大きな海難事故がありました。
大島とはあの戦艦大和が沈んでいるあたりです。この頃はまだ建造されてませんよ。

ここに原耕という一人の英雄がいます。
彼は医師でしたが、この海難事故(明治38年と39年)で実家が持ち船を失い、傾いてしまいます。
原は自ら大型動力船を建造して水産業に乗り出す。
病院は妻の千代子に託して・・・

しかし、動力船はコストがかさむので従来の漁法では収支が合わない。
そこで原は、沖縄の久米島など新しい漁場と長期の遠征(遠洋漁業のはじまり)に活路を見いだした。

そして、新漁場開拓(南洋鰹業開発)が敢行されたのです。

場所は赤道直下の未開の地。そこは風土病と土人の襲撃。
いまとはまったく条件が違う。
乗り組むのは漁師だけじゃありません。左官屋や大工まで連れて行く。
そして、現地で捕った鰹を茹でて鰹節に加工する小屋を造るのです。

船の名は「千代丸」。これは彼の病院を守る愛妻の名前から。

原は隊長兼医師として3回の航海に挑戦します。
そして、昭和8年の3回目の航海で悪性のマラリアに冒されて急逝してしまう。


この南洋探検の航海に正義爺さんは参加していた。

この航海が日本の南洋遠洋漁業の魁となるものだと知って、
わたしは血脇肉躍るぶるぶるぶる。な、わけだ。

爺さん、カッコイー!

なんで、もっと話してくれなかったの(涙)。




祖父の話(1)

当時、それを知って生存者を確認したところ、友人の新屋敷健史の爺さんと
同級生の女の子で来島さんのお父さんが確認できました。
来島さんのお父さんが最年少。
親が反対したそうです。でも聞かない。少年は荒野を目指す、いや荒波を。
密航したんだそうです。益荒男ったちの声が聞こえるか!

当時の鰹乗りはヒーローだったんでしょうね。
少年たちにとって・・・
http://www.gyokou.or.jp/100sen/100img/100sijitu/si127.pdf


写真はコロの生まれ変わり幸子を抱く爺ちゃん。