あかんたれブルース

継続はチカラかな

第三の性

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わたしたちは一応には愛を信じていたい。
しかしそこに「性」との葛藤があります。
その苛みから「心」と「体」を切り離す選択をしてしまう。

愛のないセックスはよくない。といっても
愛がなくてもセックスはできます。と切り返してくる。

それを、可哀想な人。といってしまえばそれまで、ですけどね。
それ以前に、わたし自身がそのことをうまく解釈・説明できなかった。
そりゃ、そうだけどさあ・・・って感じ。
原理、原則や道徳論では説得できない。

愛の本質さえ曖昧なのに、そこに性という厄介な存在がある。

昨日の続き。
人間には「本能」「知性」「感情」「運動」「性」の5つの基本センターで機能・管理されている。

ここから一般的に3つのタイプが生まれます。
(1)本能・運動が優先するタイプ
(2)感情が優先するタイプ
(3)知性が優先するタイプ

だいたいこの3パターンで分けられるでしょう。あなたはどのタイプ?
これは基本センターのどの部分に影響されているかをあらわします。
言い方を変えれば、独立した性のセンターが、どのセンターと結びつきやすいか。

(1)は本能のおもむくままに、(2)は感情のおもむくままに、
(3)は?
知性が性のエネルギーと結合して影響されれば
猥雑な行為に汚さ醜さ浅ましさなど否定と嫌悪をもたらしてしまう。
その状況や環境にもよるでしょうが(またその強弱のある)、
いずれにしてもわだかまりを感じる原因はこれですね。
これが愛と性を一致できない障害になっているようです。

もともと、知性は思考のセンターですから、
その思考が正しい情報から納得できれば問題はないのでしょうが、
性で悩む場合に、禁欲という方法論しかなかった。スポーツで発散させろとか。
閉鎖的で恥ずかしい問題だった。

それをうち破るスローガンが「愛があれば、」でしたね。
ただ、それが難しい。お題目だけでいけるわけがない。
また、愛があるうち、愛と感じられたはずの時期までならいいとして、
人それぞれ色々です。人生色々。

問題をややっこしくさせているのは
セックスが「生殖」と「快楽」というだけ。という決めつけにあるようです。
じゃあ、なに?

どうも、栄養補給というか体内活性化といった癒しの行為みたいですよ。
人間は「食べ物」と「空気」と「印象」という三つの栄養素を必要とする。
この「印象」の栄養素は他の4つのセンターでは受け取れない。
つまり性のセンターでしか摂取できないとグルジェフは考えたようです。

で、誤解していけないのは「じゃあ愛がなくてもセックスは・・・」じゃなくてね。
好きな相手とじゃないと、良質な印象は得られないということです。
また、本能にある絶頂を急ぐと、充分にその印象を感じられない。
不満足な印象が残されるだけなのですね。
また、その行為自体が自己中心的になってしまって
相手との交流がなされないというのも問題なようです。特に男性は注意。

というのは、この心地よい快感のなかで人間はある物質を放出する。
「水素シ12」とか「オルゴン」とか電気エネルギーに似たものです。
マイナスイオンとかエントロピーに似たものでしょうかね。

これは女性からしか放出されない。
(それと、樹木からも放出されるそうで、森林浴の効用はこれでしょうか)
男性が女性を求める本能にはこういった事情もあるのかもしれない。
男女が交わって交流させるこのエネルギーが人間を活性化させる。

それを禁欲というかたちでそのエネルギーを他のセンターが乱用した場合、
「暴力」「いじめ」「権力欲」「金欲」「嫉妬」「猜疑心」などなど
さらには「闘争」から「戦争」に暴走してしまうといいます。

フロイトが捉えた「そうであるところの」人間の姿とは
この部分ですね。




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