あかんたれブルース

継続はチカラかな

儀式と義務と常識と

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フロイトへの懐疑(なんでもかんでも性に結びつけるな)から
はじまったのですが、結局は
「なんでもかんでも性が発端」にしてしまった(汗)。

でも、フロイトの観点とすこし違うと読みとってくれた?
なんか心配だなあ。違うのですよ。
フロイトの「そうであるところの」人間は多数派。でもそれだけじゃない。
「それではあきたらない」少数派も存在する。
性をセックスだけと捉えるかどうかもあるかもね。

でも、セックスに溺れるのは大したことじゃない。
それができない。もしくは禁欲して別な方向に暴走するのが危険なのですね。

若者が恋愛やセックスができなくなっている。
セックスレスの夫婦の急増は15年前ぐらいでしょうか。
性犯罪のなかには子供という弱者をターゲットにしていきます。

対等な関係ではなく、弱者へ向かうのは
虐待やイジメ、DV(言葉も含めて)につながっている。
こういったものも性エネルギーの乱用といわれるわけです。

これはフロイト学派とはまったく別な会社からの指摘ですが、
性行為というのは男女が性器を使う行為だけじゃないという。

たとえば、前記した良寛さんが子供達と手をつないで遊ぶのもそれだし、
父親が幼い我が子を抱いてお風呂に入るのもそれだし、
マッサージ師に揉んでもらっているのもそれなのだといいます。
(ホントはここに「異性」という言葉を入れるのです、わたしは敢えてとっぱらった)

とにかく、性をセックス。イコールと考えることがヒントのようです。

恋と愛、性とセックスを混同し混乱しているのです。
まあ理解したうえで一括りにするのはいいのですが、
曖昧なママに咀嚼するから消化不良を起こしてしまう。

内舘牧子の作品に『義務と演技』というのがありましたよね。
また、『お墓』という映画で小林薫とスーちゃんの夫婦役の設定で
「水曜日と土曜日は」それがスケジュールに組み込まれていたなあ。

恋するままに永遠にその気持ちを持続させて夫婦生活を営めれば
こんなに幸せなことはありません。

うちの場合はそうです。と自己申告や発言もたまに聞きますが
まあ時間軸か特異例(相性と体質)かそれなりの工夫かなにか、宝くじに当たったようなもので、
それを聞いた人は羨ましく嫉妬さえ感じることでしょう。

女性の場合はその感受性が豊なので
なにかの理由で相手が嫌になると無関心、不感症となってしまう。
だからといってそこには「別れぬ理由」もあることでしょう。

一生恋をしていたいと願う倫ちゃん。
それが夫さんでないことが悩みであり葛藤であり、切ない願望です。

また、夫婦仲の悪い桂ちゃんは派手な衝突の後に必ず求めてくる夫が嫌です。
そういった場合のそれが関係修復の方策と男サイドは固く信じられている。

中島みゆきの「あした」という歌に

   抱きしめれば2人は なお遠くなるみたい
   許し合えば2人は なおわからなくなるみたいだ

とあるように、そうそう単純にはいかないのが世の常。天然の無常ってやつだ。
女心は男にはわからないし、男心は女にはわからない。

永遠の平行線なのか地平線の虹の彼方なのか




愛を訪ねて三千里(21)
東海道を西へ