あかんたれブルース

継続はチカラかな

萌えなきゃ屁みたいなものさ

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この日本人特有のもののあわれ的エロティズムの誘惑は
恋愛感情に強く影響するようです。

だいたいが人間なんて観念的、個人的な思い込みで生きているようなもの
ですから、ここに当然「個人差」はある。
それと文化的(マスコミ・媒体からの)な洗脳みたいなものにも流されやすい。

そういった多様化した影響と個人差があるとしても
もののあわれの遺伝子は確実に、大なり小なりあるようです。

でも、その時間の虚無感に耐えられない人たちもいるわけだ。
だから割り切ろうとするし、考えないようにしたり、
危うきに近づかないというスタンスも芽生える。
それが決して賢いとか知的なとかポジティブとかじゃないんだぞ。
それでいい人はそれでよう、それじゃあ身が持たない人はそれなりに。
ですかね。

もののあわれを「村社会」的な意識、価値観、感性の共有・共感の共同体としましたが、
その側面には「嫉妬」という厄介なものが存在する。こういった短所もあると。
どんなものにも表裏の長短があるものです。

さて、エロティズム、色気というものにわたしたちは強く惹かれるのですが、
それを「危険性」という捉え方から「切なさ」としました。
ここに、死の存在があり、あるからこそ生が生きる。
つまりは萌えるわけですよね。
儚さつらさ、切なさに身悶えするわけだ。出会いがあれば別れがある。

70年代から80年代のニューミュージックのコンセプトは
確実に「別れ」だたような気がします。
しかい、現在では現実の過酷があって、とってもそれじゃつらい。
非常に前向きな歌が多いですよね。
まさに、歌は世に連れです。
中国で儒教などの哲学が生まれたのは、逆にいうと一般社会が
無法の群だったからだ。
いまの日本で愛の歌が尊ばれるのは愛が不足してて酸欠状態なのでしょう。


人間の本質に演技的存在だといわれます。
粋人は騙されていることを承知で騙される。
そこに真実が見え隠れしている魅力に引き込まれてしまうのでしょ。

もののあわれは、その苦しみや悲しみをストレートに確認しあうんじゃなくて、
その人がそれを堪え忍び包み隠した込んだその綻びから零れた刹那。
それを察したときに醸し出される共感。
この連帯感情は受け手にもそれなりの心当たりと経験と感性がないとわからい。
ここにエロティズムがある。
それを同情などといって割り切るのは、野暮なんだな。

恋は駆け引きというけれど、たとえ芝居であっても芝居じゃいけない。
そこの兼ね合いが難しんだな。卑しいとダメなのです。
プライド、ですかね。

エロティズムには愛の本質がある。
それは本気、一途、健気、切なさ・・・
そして、プライドと無償。
だから無償の愛でないと萌えないのです。




愛と性に対しての補足として(18)エロティズムの正体(11)
ビジュアルは山本タカト丸尾末広じゃない)