あかんたれブルース

継続はチカラかな

乃木夫人の「ハウツーSEX」

乃木希典の妻、静子夫人。
夫と共に明治天皇に殉死した女性です。

薩摩藩医・湯地定之の娘でお七(お志知)と申します。
>明治5年12月2日、当時、数え14歳の時に
>海外留学から帰国した長兄・定基に呼び寄せられる形で家族揃って
>東亰赤坂溜池2番地の湯地定基邸に転居、
>東亰府麹町區にある麹町女學校に入学する。

この女学校時代に静子が馬上の乃木に一目惚れという話がありますが、
これはどうも眉唾のようです。
しかし、乃木は美男子でしたから、そうであってもおかしくない。
また、彼女が縁談以前に乃木を見た可能性もあるでしょうし、
そのときポッとなった可能性は否定はできません。

乃木には長州からの縁談が多数あったそうですが、
薩摩の女をという強い希望があった。

これは薩長閥の対立の緩和にというものや、
西郷隆盛を敬愛したからとかの諸説もありますが、
母親の寿子が非常に難しい女性だったことから
男尊女卑で有名な薩摩の女性なら、でなければ、耐えられない。
と思ったからだとする説をわたしは採ります。

でもね、薩摩女性はそんあ従順じゃないんですよ(汗)。

まあそういうわけで、静子はこの姑と、芸者と酒に溺れた夫。
また、その後、謹直厳格な男に変身する夫に苦労します。
子供を抱いて家を出たこともある。出されたのかな。
四国まで息子の進学のことで相談に行って追い返されそうにもなった。

写真が残っていない。
唯一、晩年の乃木邸で年老いた乃木の後ろに写っているのが一枚。
別に、夫と伴って殉死することもなかったでしょうけれども・・・
彼女にとって、一番悲しかったのは二人の息子たちを日露戦争で戦死させたこと。

長男勝典の戦死の知らせを受けて姉にすがって泣きました。
「・・・希典が厳格に厳格にと申しますので
 私も一緒に厳格にして、
 母親らしくしてやったこともなく・・・」

母親はつらい。


さて、そんな乃木夫人が残した書簡として
「閨の御謹の事」というものがある。
閨(ねや)ですから寝所、ベッドでのマナーです。女性のね(汗)。

「用事終われば寝所を異にして給ふべし」
用事とは・・・アレ、なんでしょうね。なんとも素っ気ない。

「興に乗してあられもない大口を開き、     (あはんはダメ)
或いは自ら心を崩して息あらく鳴らして・・・  (うっふんもダメ)
たわいなき事をを云ひ、            (馬ちゃん最高もダメ)
また自分より口を吸ひ             (キスしちゃダメ)
或いは取りはずしたる声などを出しちゃダメ!」 (とにかくマグロ)

なかなか難しいものです。
気になったので(こらこら)、すこし調べました(汗)。
これは静子が婚礼を控えた姪のてるに
「妻女の心得」として書き送ったものだそうです。
出典は文政八年(1825年)に紀伊大納言の姫君のお輿入れさた際に
持参したと伝えられる『閨の御慎しみ事』とのことです。

明治の妻も、つらいね。




昔の話さ(2)