あかんたれブルース

継続はチカラかな

好きなんだ。

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わたしが、明治の日本人が好きな理由として

明治のはじめ
横浜に「富貴楼」という料理やがあった。
女将をお倉ともうします。

明治最大のグッド・バッド・ガール
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/28136644.html
江戸一番の好い男「亀次郎」
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/28193383.html
天下の糸平の幸運の女神「お倉」
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/28236041.html
希代のフィクサーお倉が構築した「野郎どもとの友情」と「亀さんとの愛」
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/28282725.html
野郎どもと汽車と眩しい女
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/28333298.html


昨夜、調べものをしていて『横浜富貴楼 お倉』に目を通していたら
ラストの汽車の話で、泣いた。ポーッって(涙)。

それを書き写して、また泣いた。

自信なんて誰もありゃしないんだよ。


横浜にみなさんがおいでになったのはごく簡単な理由でございます。
汽車に乗りたかったのでございます。
みなさんたいそうな自信家のように振る舞っておりましたけれど、
あの頃、ほんとうは誰も自信なんかこれっぽっちもなかったのです。
御一新の前と違い、仕来り通りしていればよいというものは
なにひとつありませんでした。
これまでにしたことのないことをしなければならず、
本当にこれをやって国の利益になるのか。
できるのか、できないのか。
判断のつかないことばかりでした。
そして、なにをするにあたっても、決まって、
反対だ。してはならない。延期せよという大きな声がありました。
みなさん、自分の決めたことは正しい、
自分のやっていることは間違っていない、
こういった自信を持とうとして、
新橋駅に向かい、
汽車に乗りました。

二百人を乗せる乗り物なんて、昨日までだれが想像したでしょう。
たった、五十八分で横浜まで・・・
一分早いということも、一分遅いということもありませんでした。
一分という単位は、汽車が走る以前、日本にはありませんでした。
同じように、大きな駅舎や鉄道運営のすべてから経営の仕組みまで、
以前の日本には
なにもなかったのです。

郷川を一気に渡ったときには、
渡し船を待って河原に立っていた夏の日を、冬の日のことを思いだし、
自分のしていることは間違っていないのだと自信が湧いてきてきます。
この鉄道をつくったのは正しかったのだ、
「開花」の方針は間違っていなかったのだと思うようになります。

ところが、この自信はつづきません。
自信を打ち砕くことがつぎからつぎと起こります。
岩倉具視右大臣が襲われたとき伊藤さんと陸奥さんは
凍りついていました。
佐賀の乱西南戦争が起きて、大久保さんが暗殺されます。
そのたびに日本はどうなってしまうのだろうと、
みなさん途方にくれます。
弱気を吹き飛ばして、自信を取り戻そうとして、
みなさんは汽車に乗りました。
鉄道を建設したのは正しかった。
学校を建てる、橋を架ける、道路を港をつくる、工場を建てる、
これは間違っていないと考えて、自信を回復なさって、
横浜に着きます。

                         鳥居民『横浜富貴楼 お倉』より
                         (一部手を入れています)


なぜか、涙がボロボロでてしまう。ポーッ
これがわたしが明治が好きな理由です。
がが3つ続いてしまった。馬太郎のポーが聞こえる。か?



伊藤博文大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進めた。
京浜間の鉄道は明治5(1872)年5月に品川―横浜間で仮営業を始め、同年9月、新橋までの全線が開通した。