あかんたれブルース

継続はチカラかな

お馬のおくれげ



秋山好古がフランスのサン・シール陸軍士官学校
旧藩主久松定謨の補導役として留学したは明治二十年七月でした。
当初は私費留学でしたが、三年後に官費留学として扱われます。
これによって、好古は日本の騎兵建設を担うことになるわけです。
それはゼロからの出発といって過言ではなく、
騎兵の技術戦術だけではなく馬自体の生産の品種改良も必要でした。
明治四年に土佐藩から献上された二十頭の馬からはじまった日本騎兵は
明治十六年の頃には千四、五百頭に増えてはいましたが、
すべて日本馬でした。
わずかに、この頃オーストリアから牝馬を六頭輸入して日本馬と交配させ
雑種ではあるけれども多少馬格の大きな馬を増やしていくという
気の遠くなる計画が進行してはいたのですが、
実質として遅々として進まない。
日清戦争の段階でも日本の騎兵馬は日本馬でした。
それをみて西洋人笑ったのです。日本騎兵は「馬のような馬」に乗っていると。

余談だが
軍用馬の発展には競馬が大きく影響したといわれます。

坂の上の雲』で日清戦争に騎兵中尉が苦心して手に入れた洋雑種の芦毛馬を
敵に目標になるからと戦地にもっていくことを禁止され、
緑色の染料で塗るとい可笑しなエピソードが紹介されいました。

芦毛は白馬ではないのですが、成長するにつれ白くなります。

この芦毛は軍用馬として不的とされていた。
その影響で競走馬にも芦毛は少なかったわけです。
それが払拭されたのはタマモクロスオグリキャップが活躍した
昭和六十三年からの芦毛ブームまで待たなければいけない。
芦毛馬初の天皇賞(秋)制覇は昭和四十五年のメジロアサマ
クラシックレース菊花賞は七年後のプレストウコウ
ダービー初制覇はなんと平成元年(一九八九年)のウィナーズサークルまで
待たなければいけないのです。

日本で競馬が行われたのは、
文久二年(一八六二年)に横浜の外国人居留地で横浜レース倶楽部が発足されたときからです。
この四年後に根岸競馬場が完成。
すべては外国人のための娯楽としてのものでした。

この横浜レース倶楽部が横浜ジョッキー倶楽部となって、
日本レース・クラブになるのが明治十三年(一八八〇年)。
好古が陸軍士官学校を卒業した翌年です。
このとき、日本人の入会が可能となり、
伊藤博文松方正義大隈重信榎本武揚岩崎弥之助尾崎行雄などが入会しています。

それより五年前、特別会員として日本人初の馬主となったのが
西郷従道でした。
なんと従道は所有するミカン号に自ら騎乗して一着でゴールしている。
これが日本人馬主による初勝利となります。
日本海軍の父」といわれた山本権兵衛の保護者であった西郷従道は、
日本騎兵の発展にも貢献したともいえるかもしれない。

日本の軍用馬の本格的に動きだすのは明治三十九年。
日露戦争の後です。

この軍馬改良に貢献したのが大蔵平三という陸軍騎兵軍人でした。
設立間もない陸軍大学の教授という肩書きから
秋山好古の先生だったわけですね。
彼もまた、日本騎兵の育ての親であることは
間違いない。



ドラマ「坂の上」血風録(9)

日本人初の競馬の優勝ジョッキー
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/49094473.html